弟のこと
一昨日、3月13日、弟が亡くなりました。 僕の高校時代、弟はまだ小学生でした。僕が高校を出て東京に出たのと入れ違いに、弟は小学生から中学生になりました。6歳離れた可愛い弟でした。 可愛い小学生がそのまま大人になるわけはありません。弟は、東京の大学をすぐに中退して、東京・大阪・大分・仙台といろいろな仕事をしていました。1960年代末から1970年代にかけて、兄弟揃って疾風怒涛の時代に入ったわけで、両親は、当時、いろいろ苦労が絶えなかったと思います。 弟は、1982年、鍼灸師として故郷大館に帰ります。それ以来、ずっと両親と同居します。僕が稚内で働き始めたのは1987年で、父は翌年亡くなります。父の最後の看病をしたのは母と弟でした。 その母は、2年前に93歳で亡くなります。弟が母の介護から解放され、これからゆっくりできると思っていた矢先、母の四十九日の法要のあった日、ガンが見つかります。父と同じ食道がんでした。神がいるとすれば、気まぐれで残酷な仕打ちです。 弟は、祖母譲りか、ビジネスの才には恵まれていたと思います。途中から鍼灸から介護のビジネスに転進し、デイサービス事業で成功します。母は地域に初めて乳幼児保育園を作るのですが、弟は地域の老人介護サービスの先駆けでした。 人は誰も、生まれ、育ち、そして、老いて、死ぬわけですが、母はその前半を、弟はその後半を、地域で担当したことになります。僕がやっているITとかIT教育と言うのは、そうした人間の人生の自然な流れの中では、その意義は、明快さを欠いているように感じてしまいます。 弟は地域の活動にも積極的に取り組んでいました。大館市まちづくり協議会の会長をし、大館市教育委員長をつとめていました。60歳になった時に、全日本鍼灸マーサージ師会副会長をはじめ、公職を全て辞退したそうです。 弔問に沢山のお坊さんが訪れていました。青年会議所時代の付き合いだそうです。葬儀では、他宗の坊さんの飛び入りお経セッションが聞けるかもしれません。ただ、その付き合いの広さが、飲む回数を増やしてガンの原因を作ったのかもしれません。 進んだ道は違いますが、もともと頭の良い、ブラックですがユーモアのセンスのある弟でした。彼が、余命6ヶ月の宣告を受けた時のメールです。 -------------------