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1/15 マルレク講演資料公開

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明日のマルレクの講演資料です。ご利用ください。 https://goo.gl/i1V7Et   本論は、Part III です。こちらだけでもどうぞ。

1/31 「ポスト・ディープ・ラーニングの人工知能技術を展望する -- 人工知能研究の歴史を振り返る」

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1月31日、角川アスキー総研さんで、上記のセミナーを行います。 https://lab-kadokawa43.peatix.com/ 講演概要 2012年に始まった「ディープラーニング」のブームから、5年以上がたとうとしています。ますます応用分野を拡大する人工知能技術が、私たちの生活と未来にとって大きな意味を持つことは、多くの人の共通認識になりつつあります。 同時に、この間の様々な取り組みを通じて、現在の人工知能技術が、克服すべき課題を抱えていることも、明らかになりつつあります。人工知能の未来を考える上では、現在の到達点を正確に把握することが必要です。また、できるだけ広いパースペクティブの中で、問題を捉えることが重要だと考えています。 現代の人工知能技術の中核は、ディープ・ラーニング技術です。ディープ・ラーニング技術が、人間の視覚(例えば、画像認識)や聴覚(Voice to Text)等の感覚器官の能力の機械による置き換え、また、運動能力のコントロール(自動運転やロボット)においては、すでに人間の能力を超えるところにまで到達しているのは明らかです。ただ、これらの能力=感覚・運動的能力の多くは、動物と人間に共通する能力に他なりません。それらについては、デープ・ラーニング技術が一つの解答を与えています。 人工知能技術の未来を展望するとき、ディープ・ラーニングが得意とする感覚・運動的能力を超えて、動物にはない人間固有の知的な能力、例えば、言語能力とか数学的な能力を、我々が機械でどのように実現していくかが、「ポスト・ディープ・ラーニング」の人工知能技術の大きな課題になると、僕は考えています。 もちろん、こうした展望を具体的な人工知能の実装に落とし込むのは、すぐにはできないことが多いのですが、人工知能研究が進むべき方向性を、明確に意識することは重要なことだと考えています。こうした時には、人工知能研究が辿ってきた歴史を振り返ることが、きっと役に立ちます。 講演では、これまでのマルレクで取り上げてきたトピックと比べると、すこし回り道になりますが、あらためて、チューリングから現在までの、人工知能研究の歴史を振り返り、「ポスト・ディープラニング」の課題を考えて見たいと思っています。

1/15 マルレク リマインダ

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1/15マルレク「ボイス・アシスタントから見るAIの未来」一般の受付、1/9 12:00から開始します。 https://peatix.com/event/333453   【講演概要】 2018年は、コンシューマの世界で、Amazon Echo, Google Home 等の「ボイス・アシスタント」の本格的でグローバルな普及が始まった年として、歴史に残る年になると思います。 丸山は、コンシューマ向けの初めてのAIアプライアンスとしてのボイス・アシスタントの普及は、AIの未来を展望する上で、とても重要なステップになるだろうと考えています。 そのことは、現在のボイス・アシスタント技術が完成したAI技術であることを、少しも意味しません。現状は、むしろ、その逆です。ただ、コンシューマ市場での激しい競争が、現在の技術のいくつかの問題の解決に向けた進化の、大きな淘汰圧として作用するだろうことを期待しています。 講演では、前半で、Amazon Echo, Google Homeの特徴を、そのAPIを通じて概観します。 後半では、ポスト・ディープラーニングのAI技術の主要な課題である、「知識表現とその利用」「言語の意味理解」の二つにフォーカスして、現状と課題を考えます。 AI技術は、2012年から始まったディープ・ラーニング中心の時期を超えて、新しい発展段階に突入しようとしています。この変化の中心的な担い手が、ボイス・アシスタントです。ボイス・アシスタント技術は、AIが向かう未来のパーソナル・アシスタンス・システムの先駆として、これからも、AI技術の中核として発展していくと考えています。

意味の形式的理論 -- Entityモデル

「二つのものの関係の中に意味が現れる」と先に書いたのだが、少し、先回りしすぎたかもしれない。小論は、こうした方向と関係の基本である「同一性」概念にそって「意味の形式的理論」を考えることを目標にしているのだが、その前に、触れておかなければならないことが、いくつかあることに気づく。 一つは、「形式的理論」の「形式」を与える認識の数学的モデルの妥当性についてである。これについては、いろいろ語るべきことが残されている。それについては、いずれ、ゆっくり説明していこうと思う。(「名付け」と「参照」のfibrationモデルは、「意味不明」だったかも。) もう一つは、先の問題に比べると極めて具体的な問題なのだが、「意味の形式的理論」の一種である「知識の表現理論」について語ることである。これについては、簡単なオーバービューを与えることができるとおもう。(「意味」と「知識」とは、正確に言えば、異なるものである。) コンピュータ上での実装を見る限りでは、検索でもボイス・アシスタント技術でも、現代の「知識の表現理論」の主流は、次のような「Entityモデル」である。 「パンダ」はEntityである。Entityは型(Type)を持つ。「パンダ Entity」は「パンダ Type」を持つ。別の言い方をすれば、「パンダ(Entity)は、パンダ(Type)である。」ということになる。 Entityモデルでは、それぞれのEntityは、Propertyを持つ。パンダのEntityはパンダのPropertyを持つ。「笹が好き」「指が6本ある」「パンダ色をしている」とかが、パンダ entityのパンダPropertyになる。 だから、Entityモデルでは、パンダについての知識は、基本的には、パンダEntityのパンダPropertyで表現されることになる。 Entityモデルには、「Entityは型を持つ」「EntityはPropertyを持つ」の他に、もう一つの重要な特徴がある。それは、Entityの型が、概念の包含関係を反映した階層構造を持つということである。パンダは哺乳類である。哺乳類は動物である。動物は生物である。(かなり、いい加減な「階層」だが)    パンダ < 哺乳類 < 動物 < 生物 このEntityの型の階層が「知識の表現」で意味を持つ...

1月の丸山の講演予定です

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マルレク「ボイス・アシスタンスから見るAIの未来」 1/15 19:00-21:00 @ MS品川本社 https://peatix.com/event/333453/ MaruLabo 「量子情報理論基礎演習 I」 1/24,1/25 19:00-22:00 @ ミスルト https://peatix.com/event/334779/ https://peatix.com/event/335201/ 角川「ポスト・ディープラーニングの人工知能技術を展望する」 1/31 19:00-22:00 @ 角川 ごめんなさい。詳細は、少し、お待ちを。

意味の形式的理論 -- 文の意味

外国語の翻訳をする時、個々の語の意味は分かるのだが -- 辞書を引けばそれは分かる -- 文の意味が取れないことがよくある。そうした意味では、シンボルや記号の意味論は、プリミティブで重要なものだが、文の意味は、それらに還元されるわけではない。 シンボルの素朴な意味論に、思考の中のシンボルとそれが指示する実在のものの対応関係が登場する様に、文の素朴な意味論には、文とそれが指示する現実との対応関係が現れる。  「太陽が東から昇る」  「一つの林檎ともう一つの蜜柑で、果物は二つ。」 文が、ある範囲では正確に、現実を反映しうるということは、とても大事な言語の性質である。このことを否定する必要はない。 ただ、文の意味の素朴な実在との対応理論は、シンボルの対応理論より、やや、つまらない。文は、必ずしも現実の関係を反映したものとは限らないからだ。現実にはないことを、我々は、文で表現できる。  「僕は、巨大な虫に変身した。」  「地球には、もはや生命は存在しない。」 (我々は、意味の表象は難しいが、"Colorles green sleeps furiously" のような「正しい文」を生み出すこともできる。) 人間以外の生物の認識能力は、基本的には、環境の中でよりよく生存するために必要なものに限られている。言語能力が我々にもたらした認識の最大の飛躍は、むしろ、そうした現実の認識という束縛から我々を解放したことにあるとさえ言っていい。 先に、言語能力の獲得と宗教の発生は、同じ時期に遡ると書いたが、芸術の起源も同じ時期に遡る。「ものがたり」は、「もの」を「かたる」ことから始まるのだが、いつか「もの」の世界は拡大し、実在する「もの」の背後にあるものを、人は語り始める。 現実は、見かけの現象のとおりではない。その背後には共通の実体があり、さらにはより深い本質がある。言語能力による認識能力は、一つのものを、一つのものではない、もっと複雑なものに分裂させる。それは、現代の「科学」の母胎でもある。 別の例で、文の意味について考えてみよう。 ある英語の文について、「その意味は?」と日本人に問われたら、その英文を日本語に訳すのは不自然なことではない。ただ、日本語の文について、「その意味は?」と日本人に問われたら、意味を問われた人は...

1/15 マルレク リマインダ

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お休み中、失礼します。 1/15マルレク「ボイス・アシスタントから見るAIの未来」個人協賛会員の受付、本日(1/2 12:00から)開始しています。 https://peatix.com/event/333453 今回、会場があまり広くないので、満席が予想されます。お申し込み、よろしくお願いします。     【講演概要】 2018年は、コンシューマの世界で、Amazon Echo, Google Home 等の「ボイス・アシスタント」の本格的でグローバルな普及が始まった年として、歴史に残る年になると思います。 丸山は、コンシューマ向けの初めてのAIアプライアンスとしてのボイス・アシスタントの普及は、AIの未来を展望する上で、とても重要なステップになるだろうと考えています。 そのことは、現在のボイス・アシスタント技術が完成したAI技術であることを、少しも意味しません。現状は、むしろ、その逆です。ただ、コンシューマ市場での激しい競争が、現在の技術のいくつかの問題の解決に向けた進化の、大きな淘汰圧として作用するだろうことを期待しています。 講演では、前半で、Amazon Echo, Google Homeの特徴を、そのAPIを通じて概観します。 後半では、ポスト・ディープラーニングのAI技術の主要な課題である、「知識表現とその利用」「言語の意味理解」の二つにフォーカスして、現状と課題を考えます。 AI技術は、2012年から始まったディープ・ラーニング中心の時期を超えて、新しい発展段階に突入しようとしています。この変化の中心的な担い手が、ボイス・アシスタントです。ボイス・アシスタント技術は、AIが向かう未来のパーソナル・アシスタンス・システムの先駆として、これからも、AI技術の中核として発展していくと考えています。

意味の形式的理論 -- Fibration

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ところで、先のポストで見た二つの図式と同じような構造を持つ数学的対象が存在するのだ。 次の図を見て欲しい。二つの集合EとBとが、二つの関数 pとs とで結ばれている。 集合Eの各点は、集合B上の一点xと、pで結ばれている。この時、pをB上のFibrationという。逆に、関数sが、xをE上の点 s(x)に写す時、sをpのsection(切片と思えばいい)と呼ぶ。

意味の形式的理論 -- 素朴な対応理論2

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空海は、言葉と実在の間には、本源的なつながりが、そもそも備わっていると考える。「ア・ウンの呼吸」の「阿(ア)吽(ウン)」は、梵語のアルファベットの最初と最後の文字だが、それは、そのまま、全てのものの「本初」と「究極」の象徴となる。 「真言」の「マントラ」を唱えることで、宇宙の法則と同一化し、その力を自分のものにできる。壮大なストーリーだが、ある種の「言霊信仰」と言っていい。ただ、そう斬って捨てるには、宗教とそれを伝える言葉との関係は、現在でも複雑なものだ。 言葉と実在を、いったんは切り離し、人間の言語能力がそれを結びつけるという言語観は、人間の歴史から見ると、比較的新しいものだ。明らかなことは、宗教の起源と人間の言語能力の獲得は同時に起きただろうということ。 話を戻そう。 先に、言葉とものとを、「名付け」と「参照」という二重の仕方で結びつけた。ただ、こうした二項を密に結びつける素朴で単純な図式では、表現されないものが存在する。 一つは、言葉とものとの関係の「恣意性」であり、もう一つは、具体的には異なる複数のものが、「同一」の名前を持つことである。 ただ、この二つを、新しい図式で表現することは出来る。 図1は、様々な言語で、同じものが異なる名前を持つことを表現し、図2は、具体的には異なるものが、同一の名前を持つことを表現している。 いずれでも、緑の矢印は「名付け」を、青の矢印は「参照」を表している。 奇妙なことだが、両者は、同じ構造を持つ、双対な図式で表現される。今度は、その形式化を考えよう。

意味の形式的理論 -- 素朴な対応理論1

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オグデンとリチャードの「意味の三角形」の要点の一つは、三角形の底辺部分が欠けていることなのだが、これは、一つには「シンボル」とシンボルが表現する「被参照物」が、直接の関係を持たないことを表している。それは、ソシュールがいう「記号の恣意性」というのと、同じことである。 底辺の欠落には、もう一つの理由がある。底辺の左側の「シンボル」は思考の内側にのみ存在し、底辺の右側の「被参照物」は基本的には思考の外側のみに存在する。底辺の二項は、存在のあり方が異なっている。(ここでは、思考の内部の「被参照物」を直接には考察の対象とはしない。その意味では、素朴な対応理論である。) 底辺の二項を結びつけているのは、人間の言語能力・思考の作用である。こうした能力の存在を仮定すれば、底辺の二項はつながりを持つ。 この三角形の辺を動かして、一直線上に並べてみれば、「シンボル」とそれが表現する「被参照物」とは、二つの仕方で結びついていることがわかる。 一つは、思考の内側のシンボルが、思考の外部に存在するあるものを参照するという関係(図1右上の青い矢印)であり、もう一つは、思考の外部のあるものを思考の内部にシンボルとして取り込む(図1右下の緑の矢印)ことである。後者の、もっともプリミティブな言語化の例は、ものに名前を与えることである。(シンボル=名前=語) 図2は、我々の思考の内側の「語の世界」と、我々の思考の外部の「現実の世界」が、「名付け」と「参照」という逆方向の対応で結びつく様子を示している。