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「Brain Picking 10年の10の教訓」

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Brain Pickingのマリア・パポーバが、「Brain Picking 10年の10の教訓」というのをまとめている。 https://goo.gl/uJAXcV 1. 自分の心を変えるという、愉快ではない贅沢を許しなさい。 2. 名声や地位やお金や承認欲求のためには、何もしないこと。 3. 寛大であれ。 4. 自分の人生の中に、静寂のポケットを作りなさい。 5. 「あなたは何者なの」と問う人がいたら、その人を信じないこと。 6. 現実は、はるかに複雑で、芸術に値する。生産性よりも。 7. 実現に長い時間を要する価値あるものに期待しなさい。 8. あなたの精神を拡大するものを見つけ出しなさい。 9. 理想主義者であることを恐れないこと。 10. 皮肉なものの見方に、ただ抵抗するだけでなく、それと戦いなさい。 Brain Pickingが話題になった頃、サブスクライブしていたのだが、ちゃんと読み始めたのは、少し時間に余裕ができてからだ。僕のいるITの世界とは、ずいぶん違う世界かもしれない。 マリアは、ニューヨークで活動しているが、ブルガリア人だ。まだ、32歳。こうしたヨーロッパの知性をアメリカは受け入れてきた。 僕の好きな数理物理学者のJohn Baezのおじいさんは、メキシコからアメリカに移ってきた。(フォーク歌手のJoan Baezのおじいさんでもある) 今年、女性で初めて数学のフィールド賞をとった、マリアム・ミルザハニは、スタンフォード大にいるが、イラン人だ。 同じく、僕の好きな Scott Aaronsonの昨日のblogは、悲痛なものだった。彼のblogの名前は、彼の父祖が住んでいたヨーロッパのユダヤ人の街から取られている。 https://goo.gl/bLrwMn I will sadly understand if foreign students and postdocs no longer wish to study in the US, or if foreign researchers no longer wish to enter the US even for conferences and visits.

「トポロジー的相転移と物質のトポロジー相の理論的発見」

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2016年のノーベル賞は、ボブ・ディランの「知らんふり」が大きな話題になったが、ノーベル委員会のThors Hans Hanssonの物理学賞の受賞理由の説明も一部でちょっぴり話題になった。"Thors Hans Hansson"でググって、「画像」か「動画」を見ればたくさん出てくる。 彼は、受賞した「トポロジー的相転移と物質のトポロジー相の理論的発見」“theoretical discoveries of topological phase transitions and topological phases of matter"の「トポロジー」を、お菓子のドーナツとパンを手にとって説明したのだ。正確には、pretzel(穴二つ), bagel(穴一つ), cinnamon bun(穴なし)だが。 彼の説明が、わかりやすいものであったか、受け取り方は色々のようだ。Wired誌 は、ひどい見出しをつけていた。「ノーベル物理学賞は、誰も理解できない、なんか奇妙なものに与えられた」”Nobel Prize in Physics Goes to An other Weird Thing Nobody Understands”  https://goo.gl/kIH1UT  そこまで言わなくてもいいのに。 今年の物理学賞の受賞者3人ともイギリス出身だが、今は、全員アメリカにいる。その背景には、70年代末に、イギリス政府が基礎研究に対する予算支出を削減したことがあるという。 受賞者の一人、Duncan Haldane のインタビューが興味深い。 「私は、政府機関が「それは何の役に立つんだ?」と言い始めるのは、とても悪いことだと考えている。我々は、絶対にそんなことは言わない。なぜなら、本当に役に立つ偉大な発見は、全て、誰かが「何か役に立つものを発見したい」と思って生まれたものではないからだ。それは、誰かが何か面白いものを見つけ、そのあとで、それがとてつもなく役に立つことが判明したというふうに生まれてきた。... あるものが役に立つのか役にたたないかを知ることは、とても難しいのだ。ただ、人は、それがとてもエキサイティングなものであるかは、知ることができる。」 "It's very difficult to

風の色はどんな色?

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昨日は、耳の話だったので、今日は目の話。 僕は目が悪い。 この前、ボロのメガネを、新しいのにかえたのだけれど、残念ながら、メガネのみてくれは良くなったけれど、僕の視力がよくなったわけではないようだ。 ま、いいか。目が悪いといいこともあるのだから。 部屋にホコリがたまっていても気にならないし、自動車免許もないので、ボケて自動車で徘徊して人をはねることもない。その上、男性は皆、賢く見え、女性は皆、美人に見える。 面白いのは、もしも、僕が4Kのテレビを買っても、僕が見えるのは、皆が見ている4Kのテレビの画像とは違うのは確かだということ。でも、どう違うのかは、僕もみんなも、納得できるように説明できないと思う。お互い様だ。 目は悪いけど、僕は鼻と舌は結構いい、と強がろうとしたのだが、やはり、それじゃね。だって、鼻で言えば、逆立ちしたって、その辺の野良犬に勝てるわけはないのだし(それは、僕だけじゃないはず)、舌で言えば、「あの、僕、目が悪いんで、ちょっと舐めさせてください」と言えるわけもない。人を舐めてはいけない。 あのちょっとキザな「星の王子さま」は、こういっている。 「ものごとはね、心で見なくてはよく見えない。いちばんたいせつなことは、目に見えない。」 目が悪い僕には、キザだが、うれしいセリフかもしれない。 先日、目が見えない少年が主人公の絵本の広告を見た。「風の色は、どんな色」"What Color Is the Wind?"  https://goo.gl/NprMIJ 少年は、いろんなものに「風の色はどんな色」と質問する。すると、みんなちがった答えが返ってくる。(誰かがレビューに書いていたが、禅問答のようだ) ミツバチは、風の色は、暖かい太陽の色だと答える。 世界を匂いで感じている老犬は、風の色は「ピンク」で、花のようで、青白いと答える。 狼は、暗い森の匂いだと言い、山は、風は鳥だという。 窓は、風の色は、時間の色だと答える。 世界を知るために感覚は、なくてはならないものだ。そのことを否定するのは難しいのだが、世界を知ることと感覚の関係は、案外、複雑なのだと思う。

ヘレン・ケラー、ベートベンを聴く

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アマゾンの特売で2,980円で買ったbluetoothのヘッドフォンが、なかなかいい。僕は深夜族なので、アパートでガンガン、ロックをかけるのは、気がひける。かと言って、クラシックなら許してもらえるわけでもない。 でも、イヤフォンはヒモがうっとおしい。 ヘッドフォン、難を言えば、イヤフォンより重い(当たり前だ)、頭が締め付けられる(孫悟空だってそうだ)、寝ながら聞きにくい(まっすぐ上を見て寝ればいい)。 音質だが、僕には、十分だ。なんせ、ソノシート(知らないだろう)で初めてTake Fiveを聴いて感激し、FENのラジオでプレスリーを聴いて熱中してきた。音質などいいわけがない。音楽は、想像力で補える。 昔、タンノイのArdenを持っていた。いいスピーカーだ。でも、引越しの時、コーンが破損して、稚内に着いた時には粗大ゴミになっていた。このヘッドフォンなら、そうした悲劇は起こらない。 何より、値段の割に、すごい「ハイテク」だと、つくづく思う。僕は、昔の音楽家に、僕がどうやって彼らの音楽を聴いているのか説明する自信がない。 そうか。聴かせてみればいいのか。 もっとも晩年のベートーベンは、耳が聴こえなかったらしい。 耳が聴こえなかった彼が作曲した「第九」を、同じく耳が聴こえないヘレン・ケラーが「聴いて」、感激して、演奏したニューヨーク交響楽団に手紙を書いたというエピソードがある。  https://goo.gl/xBRrfL 彼女は、スピーカに手を当てて、第九を聴いたらしい。以下、彼女のその手紙の一部。 Dear Friends: I have the joy of being able to tell you that, though deaf and blind, I spent a glorious hour last night listening over the radio to Beethoven’s “Ninth Symphony.” I do not mean to say that I “heard” the music in the sense that other people heard it; and I do not know whether I can make you understand how

AIの問題は解決したのか? Facebook AI チーム

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"Artificial Tasks for Artificial Intelligence"  https://goo.gl/GGVMc6 FacebookのAIチームの問題意識と現在の取り組みがよくわかる。Deep Learningの手法のこれまでの「成功」を踏まえて、次の課題を探ろうとしている。 「AIの問題は解決したのか?」 という問いに、「そうではない。巨大なデータの統計を、賢く利用することに成功した。」と述べ、「推論の能力は制限的」「概念は統計ではない」と述べる。妥当な認識だと思う。(図1) 彼らが、現在、取り組んでいることの例をあげよう。(図2)"TOWARDS AI-COMPLETE QUESTION ANSWERING : A SET OF PREREQUISITE TOY TASKS"  https://goo.gl/nIHbjF これだと見にくいか。こんな感じ。 Task 7: Counting  Daniel picks up the football.  Daniel dropped the football.  Daniel got the milk.  Daniel took the apple. How many objects is Daniel holding? A: two Task 8: Lists/Sets  Daniel picks up the football.  Daniel drops the newspaper.  Daniel picks up the milk.  John took the apple. What is Daniel holding? A: milk, football Task 9: Simple Negation  Sandra travelled to the office  Fred is no longer in the office. Is Fred in the office? A:no Is Sandra in the office? A:yes Task 10: Indefinite Knowledge  John is either in the classroom or

Bob Dylan "I'm not there"

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huluでボブ・ディランの映画、"I'm not there"を見る。面白かった。フェリーニの映画を思い出した。どれくらい面白かったかというと、ミーハーなので、彼の自伝 "Chronicles Volume One"を読み始めていたのだが、「残りは、あとで読めばいいか」と思うくらい。 全編に彼の曲が流れる。エピソードのいくつかは、僕も知っている(リアルタイムで。過去の)ものだった。ただ、この映画は彼の「伝記」映画ではない。事実に忠実なドキュメンタリーが、最良の「伝記」の形式とは限らない。そんなことをしていたら、それは、限りなく長く退屈なものになるだけだ。 ウディー・ガスリーやビリー・ザ・キッドがボブ・ディランなんだ。ランボーずきのキザな若者も。そして、ギンズバーグやビートルズとも交流する。この監督が切り取るものは、シュールだがシャープだ。 ランボーやギンズバーグはおいといて、「ウディー・ガスリー」という名前の黒人の少年(である、ボブ・ディラン)が、貨物列車にもぐり込んでアメリカを放浪するというエピソードは、最近、なぜかポツリポツリと読み返している「ハックルベリーフィンの冒険」を思い起こさせる。「アメリカは歴史の浅い国だ」と思っている人は、少なくないように思うのだが、多分、それは間違いだ。 でも、僕は、ボブ・ディランのことも彼の曲も、よく知らないのだ。彼が一世代年長だが、若い人から見れば誤差の範囲内の同世代なので、出会うべき機会はあったはずなのだが、その頃の僕の関心に、彼はいなかった。そんなものだ。 今見たら、家の近くの「早稲田松竹」でやっていた。見に行けばよかった。 http://www.wasedashochiku.co.jp/lineup/schedule.html

生成文法とカテゴリー文法の接近

言語学にはいろんな「流派」がある。生成文法、認知言語学、従属文法、カテゴリー文法、 ミニマリスト... 。そして、それらの「流派」の間で、結構、激しい論争がある。最初にあげた生成文法と最後にあげたミニマリスト・プログラムは、どちらも同じChomskyの理論だが、違うものになっていると思っていい。だから、Chomskyとかつての彼の「弟子」たちとも、論争が起きる。 もっとも、「文化系」の「学問」だから、そんなことが起きると思ってはいけないと思う。物理学だって、スーパー・ストリングの連中と、量子ループ重力の連中は、ソリが合わない。この前紹介したペンローズのように、現在「主流」の物理学は、「ファッション」で「信仰」で「ファンタジー」だと、こき下ろす御大もいるのだから。 つい最近カテゴリー文法の本を読んでいたら、こんなことが書いてあった。しかも冒頭に。知らなかった。ChomskyとLambek、仲が悪いと思っていた。Lambekは、カテゴリー文法を作った人だ。 「1950年代、J.LambekとN.Chomskyは、お互い知り合っていて、お互いの仕事も知っていた。また、二人とも、数学と言語学の両方を知っていた。Lambekは数学に、Chomskyは言語学の道に進んだ。 Lambekの論文は、数十年間行方不明になっていて、"Lambeck Calculus"という用語は、論文が再発見された1980年代に、J. van Benthem によって名付けられたものだ。」 このMorrillの本 "Categorial Grammar"は、2011年に出版されたカテゴリー文法の本なのだが、いろんなところに、Chomskyの引用がある。しかも、肯定的な。 僕が、カテゴリー文法が、ChomskyのMinimalistに近づいていると気がついたのは、二年ほど前に、次の論文を見つけた時だ。 "On the Convergence Of 'Minimalist' Syntax and Categorial Grammar"  http://bit.ly/1vonO0U 以前にも紹介したことがあるのだが、この論文、ちょっと変わった構成をしていて面白い。 舞台は、アムステルダムの'C