科学と哲学

12月14日開催の連続ナイトセミナー「人工知能を科学する」の今回のテーマは、「人工知能と哲学」です。https://lab-kadokawa72.peatix.com/

「人工知能を科学するのに、哲学必要ですか?」と思われた人も少なくないと思います。たしかに。

科学や数学は、確立された体系(少なくとも「これまでに確立された」という意味ですが)を持っています。その成果は、多くの人に等しく共有されています。今では誰もが、「地球が太陽のまわりを回っている」「リンゴが木から落ちるのは重力があるから」と考えています。もちろん「1+1=2」で「直角三角形ではピタゴラスの定理が成り立つ」ことも。そういう知識のあり方を「累積的知」と呼ぶことがあります。

哲学には、残念ながら、確立された体系も万人が認める真理も存在しないように見えます。人によって物事の捉え方が異なるのですから、哲学にも色々な立場があります。「残念ながら」と書きましたが、それはそれでいいことだし、これからも哲学が「完成」するようには思えません。

そうした意味では、科学と哲学は、かなり違っています。

ただ、科学と哲学は、想像以上に広い接点を持っています。それは、おそらく、技術がビジネスや経済合理性と強い結びつきを持っているのと同じだと思います。「科学と哲学」と「技術とビジネス」の二つの結びつきをくらべれば、その結びつきのの質はずいぶん違うし、「科学と哲学」のつながりはあまり意識されることは少ないのですが。

科学も数学も「発展」して、その体系を「更新」します。現在の科学が全ての問題に解答を用意しているわけではないのです。現在の科学では説明できない「謎」の存在こそ、科学を発展させる原動力です。「謎」に立ち向かうには、様々な「立場」、ある場合には矛盾する「仮説」が必要になります。そのような局面では、科学者も哲学していると考えていいのだと、僕は考えています。

今回のセミナーでは、三つの話をしようと思います。

一つ目は、「コンピュータは人間を超える」という「シンギュラリティ論」や、「そんなことはない。人間の脳の働きはコンピュータのアルゴリズムを超えている」というペンローズらの「量子脳」理論を、「計算主義」の立場から批判してみようと思います。

二つ目は、言語の意味の理解を例に、文法の理論と双対の意味の理論が必要だという話をします。それは、計算主義の拡張なのですが、計算自体を対象にした形式的なメタ計算理論になります。そうしたアプローチは、認識能力に対する「形式主義」と呼んでいいものだと考えています。

三つ目は、感情や信念、自己意識・自由意志、芸術や宗教など、「計算主義」的な「還元主義」あるいは「形式主義」的「抽象化」ではカバーできない人間の諸能力・諸活動はたくさんあります。これらをどう考えるのかという話ができたらと思います。「エマージェント(創発?)」というコンセプトを紹介できればと思います。


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