有限の「限界」を考える

有限と無限は対の概念です。英語でも、"finite"と "infinite" と対になっていますね。ただ、有限と無限の対比の仕方は、日本語と英語とでは、少し違います。日本語では、有限は「限界があるもの」で、無限は「限界がないもの」ですが、英語では、「無限」は「有限でないもの」です。日本語の方が、定義が踏み込んでいます。

ここでは、「限界がある」という有限の定義で、有限には、どんな限界があるのかを考えてみましょう。

有限の身近なモデルとして、自然数を考えましょう。ある具体的な自然数nを考えて、nは有限であると考えることは自然なことのように思われます。具体的な自然数を有限のモデルだとして、今度は、有限の「限界」を、どんな自然数nに対しても、n < N なるNが存在することだと考えましょう。有限な自然数には、大きさで超えられない壁があって、それが有限の「限界」だと考えるということです。

ただ、この有限の「限界」の特徴づけは、いくつか奇妙なところがあります。

限界Nが存在して、それが自然数だとします。その時、N+1も自然数で、N < N+1 ですので、限界はNではなく、N+1になります。これは矛盾です。ですから限界Nが、自然数だと考えることはできません。これは、素直に考えれば、最大の自然数は存在しないということです。また、それは、具体的に与えられた自然数nより大きい自然数は「無限」に存在することを意味します。

先に、ユークリッドが素数が無限に存在することの証明を、無限という言葉を使わずに行ったと書きましたが、彼が行ったのは、次のような証明です。基本的には、上と同じ論理です。

最大の素数pが存在するとする。p以下の全ての素数の積に1を加えた数をPとする。Pは、全ての素数で割っても、1が余って割り切れない。よってPは素数で、p < P で、pは最大の素数ではない。これは矛盾。よって、最大の素数は存在しない。

色々奇妙なところもあるのですが、「具体的に与えられた自然数=有限」というモデルを維持することにこだわりましょう。このモデルは、自然なものにおもえますので。

それでは、この有限のモデルで、その「限界」は、どう考えればいいのでしょう?

次のようなωを考えます(先に見たように、ωは自然数ではありません)。
 
 「全ての自然数nについて、n < ω」

そう考えれば、「自然数=有限」というモデルの「有限の限界」は、ωで与えられることになります。

この解釈も、いささか奇妙なものです。ωは、無限個の自然数より「大きく」、かつ自然数ではないのですから、このモデルでは「有限」のものとは考えにくいのです。この解釈によれば、有限なものの「限界」は、「有限ではない」ものによって規定されることになります。n < ω という式は、「有限は、無限より小さいもの」とも解釈できます。"finite" で "infinite" を定義するのとは、まったく逆です。

 「そもそも、n < ω というようなωが存在することが具体的にイメージできない」

そうかもしれません。ただ、イメージだけなら、ωをイメージするいい方法があります。

0以外の自然数nを1/nに対応させます。1は1/1に、2は1/2に、3は1/3に、4は1/4 .... nは1/n.の点に移ります。

この一対一の対応は強力です。無限に広がった無限個の自然数nは、全て0と1の間の1/nの形の有理数に閉じ込められます。nが無限に大きくなるにつれ、1/nは0に近づくのですが、この対応づけで、ωは0に対応します。 

0の周辺には、無数の1/nの形の有理数が集まっています。こういう点を「集積点」と呼びます。

少し慣れれば、nと1/nの対応を意識しなくても、有限な自然数全体の「集積点」としてωをイメージすることができるようになると思います。

こうした構成は、カントールの「順序数」の構成の最初の一歩をなぞったものです。数学的には、ωのような無限を「可算無限」と呼びます。それについては、また別に説明したいと思います。

ただ、有限なものの限界をωで抑えるのは、ある意味では本質的ですが、あまりに広すぎます。「具体的に与えられた自然数 n」という言い方をしてきましたが、我々は、少なくとも、可算無限に属する自然数の集合に関して言えば、その集合を全て定義し計算できるとは限らないのです(もちろん、有限個の自然数からなる集合なら、それを計算することはできるのですが)。我々が具体的に構成できるωの部分集合を「帰納的可算」と言います。

計算可能であるという条件を付ければ、有限の「限界」の第二の候補として、「可算無限」ではなくこの「帰納的可算」が浮上します。この「帰納的可算」を与えるのが、実は、チューリングマシンなのです。この認識は、とても大事なことです。我々がチューリングマシンを学ぶべき最大の理由の一つは、ここにあります。

ただ、悲しいことに、こうして有限の「限界」を狭めていっても、「帰納的可算」も広すぎて、我々の手には余ります。我々が現実的・具体的に計算できる有限な量の特徴を把握するのには、有限の「限界」の別の特徴づけが必要になります。

それには、どんなnに対しても、xが大きくなると、\(x^n\)より、\(n^x\)の方がずっと大きくなるという「多項式関数 < 指数関数」という関係を利用します。 \(x^{10000}\)は大きな数ですが、xが大きくなると、\(2^x\)の方がずっと大きくなります。

 「多項式関数 < 指数関数」という関係は、先に見た「n < ω」のような「有限 < 無限」という関係ではありません。どちらも有限です。ただ、「多項式関数=有限で人間にとって扱いやすいもの」で「指数関数=有限だが、人間には扱いにくいもの」を代表していると考えればいいと思います。 

こうして、有限の「限界」の第三の候補として、 「チューリングマシンで計算できて(「帰納的可算」に属するということです)、かつ、その計算が「多項式」で表される時間で 可能なもの」という「限界」が、経験的に生まれることになります。    

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