自然と人間と科学 1
目の前から、人間が作ったもの、人間に関わるものを、すべて消してみましょう。それでも、自然はあるがままの姿で、広がっているように思えます。野に咲く花も、空を飛ぶ鳥も、木々をゆらす風も、夜空の星も。 ただ、そうした空想を行うことが、だんだん、難しくなっています。人間のいない世界のイメージといえば、「廃墟」のイメージを持つ人がむしろ多いかもしれません。それでも自然は残ると僕は思うのですが。それは、私たちの日常的な視界から、自然が見えにくくなっているからだと思います。 一方で、現代は科学の時代だと多くの人が考えています。ただ、科学の主要な対象である自然から、私たちは、どんどん遠ざかっています。そのことは、自然に対する関心だけでなく、いずれ、科学に対する関心をも失わせる力として働くことになると感じています。 科学を私たちにとって疎遠なものにする、もう一つの大きな力があります。 それは、そもそも、科学が歴史的には、冒頭に述べたような素朴な自然観から、自分を意識的に分離することで生まれたことによるものです。 私たちの遠い遠い祖先は、自然と深く結びついていました。というより、圧倒的な自然の力の前に人間は無力でした。ただ、自然に対する畏怖・感嘆の念を持ち得たことは、人間を他の動物とを区別するものです。それは、その後、宗教・芸術・科学等に枝わかれしていく、すべての人間の営みの原始の共通の起源になりました。 時間を何万年か進めます。話は少し飛躍します。 現代では、科学は、主要に「科学者」という専門家集団によって担われています。彼らは、特殊な訓練を受け、特殊な言葉で話します。その言葉は、一般には、わかりにくいものです。 「科学者」が人口に占める割合は、大きなものではありません。おそらく宗教が支配的であった時代、どの村々にも必ず存在していた神職者が人口の中で占めていた比率を上回ることはないと思います。 (科学の世界では、博士号を取得した科学者の卵たちの「過剰」に悩まされています。それは、社会的には「構造的な問題」なのですが、僕は、むしろ、歴史的には必然的な傾向のように考えることができると思っています。) それでは、なぜ、多くの人は、実際にはかなり疎遠なものでしかない科学に対して、現代は「科学の時代」だと考えるのでしょう? その理由は、明確だと思います。「科学」の応用としての「技術」が、現代の...