Accountable Nature

 【Accountable Nature】

白い大きな壁に「可解」と言う文字が書かれていた。
昨日テレビで見た見た、松山智一の上海での個展の会場の入り口の映像だ。

気になって調べてみる。

「Accountable Nature 自然 --- 可解」と言うのが、個展のタイトルだった。https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/22908

松山は英語がうまい。Accountableを「可解」と訳すのは、あまり見たことがなかったのだが。"Accountable Nature"、面白いコンセプトだと思う。

先の「美術手帖」の解説では、「自然とデジタル、現実と非現実といったいまの時代を構築する不安定な二項対立を描きだす作品群」だという。あるいは、作家本人もそう考えているのかもしれないが。

ただ、"Accountable Nature" は、「可解な自然」ではないか? そこには、「二項対立」はない。

「人間と自然」は、「いまの時代を構築する不安定な二項対立」の主要な焦点のひとつだ。科学もまた、人間による自然理解の試みとして、この二項を媒介するものだと、僕は思っている。

「説明可能性」としての"Accountable"は、「ことばで表現できる」ことだ。"Countable"であることもまた、「ことばで表現できる」ことと同義である。「可算=数え上げることができること」を、countableとかenumerableというのだが、 科学では、「可算」であることは、問題が「可解」であることの条件だ。

もっとも、彼の表現をになっているのは、ことばではない。彼が志向しているのも科学ではないだろう。

だから、僕らは、科学とは限らない人間による自然の表現を、あるいは、自然と人間の媒介を人間に可能にするものは、何かを考えないといけない。

「自然と人間」「科学と表現」「可解なものと不可解なもの」「有限と無限」 ......

たまたま、松山が出ていた前日の番組にBumpの藤原基央が出ていた。この前、引用した詩は、藤原のものだ。藤原と松山は、ほぼ同じ世代だということに気づく。

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