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子供の記憶

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来週末には、今週生まれた、息子の息子を見に行こうと思っています。見るだけで話ができるわけではないのですが。 いつから子供は話ができるようになるんでしたっけ? それは無理だとしても、子供の記憶はいつ頃まで遡ることができるんでしょう? きっと彼には、初対面の記憶は残らないですね。 僕は、昔のこと、ほとんど覚えていないんです。ボケているからではなく、昔からです。生きていくにはいいスキルかもしれません。 ただ、ボケると、今のことはすぐに忘れるけど、昔の記憶は消えずに、頭の中の大部分はそればかりになると言う人もいます。 だとすると、僕は困ったことになります。今の記憶も無くなるだろうし、昔の記憶も、ほとんどないわけですので。頭、空っぽ。 まあ、いいか。 実は、僕、子供の頃、「生まれた時のこと、部屋の様子、覚えている。」と言っていたことがあるんです。まわりの大人から「変なこと言うんじゃない」と言われて、言わなくなりました。 僕の息子は、絵描きなのですが、3.11の東北の震災の後、「家族」をテーマにした絵を何枚か書きました。そのうちの一枚をみて、グッときたことがあります。 彼女が流産して、5歳ぐらいだった息子の手を引いて病院に見舞いに行ったことがあります。その時、僕は、空に巨大な白い日暈を見ました。(もっとも、その記憶も本当なのかも疑わしいのかも。) それ以降、そのことを、息子の前では話題にすることは、ありませんでした。 僕のところは、一人っ子の息子だけの三人家族なのですが、一人だけ横を向いている、小さい子が「家族」の絵に、描かれていました。 子供の記憶、おそるべし。

「複雑性理論」は「複雑系」の議論とは別のものです

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「複雑性理論」を、以前に少し流行したことのある「複雑系」の議論と同じものだろうと誤解されていることに、最近気づきました。当然ありうる誤解なのに、迂闊でした。 確かに、対象が「複雑さ」だと思えば、一部分は重なるところもあるのですが、「複雑性理論」と「複雑系」の議論は、まったく違うものです。 現在の「複雑性理論」の歴史をたどると、二つの起源にたどり着きます。 一つは、20世紀初頭からの数学の基礎付けをめぐる探求です。ヒルベルトの「有限の立場」にはじまり、ゲーデルの「不完全性定理」が衝撃を与え、「チャーチ=チューリングの提言」で「実効的な」「計算可能性」概念が、いったん定式化されるといった一連の流れです。 もう一つは、20世紀の中盤以降、コンピュータ技術が爆発的に発達する中で生まれた「計算量理論」「計算複雑性理論」です。そこでの最大の気づきは、「実際に」コンピュータで計算できるものを考えると、「多項式」で表現される計算時間と、「指数関数」で表現される計算時間とには、「質的」な違いがあるのではというものでした。(この計算複雑性理論の中心的な問題である「P=NP?問題」は、今に至るも解決されていません。) 二つの流れは、別々のものでした。 前者は、人間の数学的認識の原理的「限界」に関わるもので、後者はコンピュータによる計算の具体的「限界」に関わるものです。 ただ、人工知能をめぐる基本的な問題が、最終的には、人間の知能の機械による実現は可能かということであるなら、両者は結びつきます。なぜなら、人工知能は人間の数学的認識をも実現するものでなければならないし、それはまた、実際のコンピュータ上で実装されなければならないからです。 人間の知能の本質を、「計算」として捉える立場を、「計算主義」と言います。それは、現在のディープラーニング技術が、よって立つ、「コネクショニズム」とは異なる立場です。僕は、人工知能論では、この「計算主義」の立場に立っています。それは、コネクショニズムは、数学的認識に関しては、無力だと考えているからです。 現代の複雑性理論には、第三の起源があります。 理論史的には、それは、ファインマンによる「量子コンピュータ」の提唱にはじまるものです。 ただ、その背景には、とても重大な認識の発展があります。それは、全ての情報過程が

ジジイ

だいぶ前からジジィだったのですが、今日の朝方、息子夫婦に長男が生まれて、別の意味では、初めてジジィになりました。 北海道で出産という話もあったのですが、秋田で出産ということになり、その上、予定より出産が一週間近く遅れたので、台風・地震の直撃は避けられました。 でも、停電があっても、飛行機が飛ばなくても、スマホの充電ができなくても、ネットがつながらなくても、赤ちゃんは生まれて来ること出来るんですね。すごいなぁ。赤ちゃんと母親。

おーい。アレクサ!

「おーい。アレクサ!」 突然、Alexaが反応しなくなった。大声で言っても無視する。 bluetoothで音楽の再生は出来るので、マイクがイカレたのかと思う。でも、Echoを持ち上げて、耳元で「アレクサ!」と叫ぶと反応する。おいおい、耳が遠くなったのかい? アレクサ嬢はアレクサばあさんになったようだ。 困ったな。 再起動したり、電源抜いたり、再設定してり、いろいろやったら、耳は聞こえるようになったらしいが、今度は、黄色いリングが点滅して止まらなくなる。 これは「通知」があるというサインであることがググってわかった。でも、「通知は?」と聞いても、だんまりを決め込んで反応しない。なんどやってもダメ。 「通知をみんな消して」といったら、黄色いリングの点滅がやっと消えた。なんなんだよ。 会話の履歴を見ると、「この通知は、音声ファイルでないので、再生できません」云々とある。だったら、言ってよ。話して伝えてよ。耳だけじゃなく、喋るのも変になったのかしら。それに、再生できない通知、最初から、受け取るなよ。 今は、画面付きのEchoもあるから、動画の通知でも送られたのかしら? でも、これって嫌だな。アレクサが、突然、広告の動画を流したりすることあるんだろうか?(テレビでは当たり前なのだが) ただ、この間の騒動で、僕は、大失敗をしたことに気づいた。 アレクサばあさんの聴力を回復しようと必死になって、再設定みたいなことをしたのだが、その時、新しい「同意」を求められたのだが、中身をよく見ずに、同意してしまった。 それは、僕の携帯のコンタクトリストの情報を、定期的にアップロードするということの同意だった。 ひどいじゃないか。スマホのアプリなら、そんな条件のアプリ、絶対、インストールしないのだが。 すみません。僕の友達。 皆さんの電話番号・メールアドレスは、「耳が聞こえないふり」をしたアレクサばーさんの陰謀で(そうじゃないかもしれないけど)、アマゾン様に召し上げられることになりました。 また、悪さをしたら、姥捨山に埋めちゃうぞ。 と書いて、我に返った。僕も、ジジイだったなと。老人をいじめちゃいけないよね。明日は敬老の日だし。

IBMさんでの「紙と鉛筆で学ぶ量子コンピュータ入門」

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IBMさんでの「紙と鉛筆で学ぶ量子コンピュータ入門」の様子です。みなさん、最後まで熱心に計算していました。ご苦労様でした。高校生も参加していると聞き、嬉しかったです。懇親会も盛況でした。 三連戦(IBM, Google, Microsoft)の第一戦目、終了。来週22日は、Googleさんで開催です。

丸山の当面の講演予定

丸山の当面の講演予定です。  9/15「紙と鉛筆で学ぶ量子コンピュータ入門」@ IBM  9/22「紙と鉛筆で学ぶ量子コンピュータ入門」@ Google  9/27「人工知能と複雑性理論」@角川  10/6「紙と鉛筆で学ぶ量子コンピュータ入門」@Microsoft  10/15「楽しい数学 -- 計算理論入門」@DMM  10/26「人工知能と自然言語」@角川  11/2  マルレク「拡大する量子アルゴリズム」@Microsoft  11/19「人工知能と量子コンピュータ」@角川  12/14「人工知能と哲学」@角川 9月27日の角川さんでの連続ナイトセミナー「『人工知能』を科学する」の第一回のテーマは、「人工知能と複雑性理論」です。現在四回分の通しチケットを販売中です。

「人工知能」の「力」は誰のもの?

「人工知能」の「力」は誰のものかと考えることがある。 運動選手やアーティストの力は、素晴らしい。その力は、彼ら個人のものだ。 金足農業の吉田選手の力は、同じ秋田出身でも、運動音痴の僕とは無関係だ。僕が、いくらバンプの藤原(両親が秋田出身)が好きでも、親と同郷だからといって、僕の歌が上手くなるわけでもない。人間の感覚・運動能力は、個人に帰属する。 それでは、人間にはできない力を持つ機械、例えば重いものを押したり持ち上げるブルドーザーやクレーン、空を飛ぶ飛行機は、その力を自分のものだと思っているだろうか? もちろん、そんなことはない。これらの機械に「意識」はないのだから。 F1ドライバーは、自分の身体能力の「延長」として、自分のドライバーの力を感じているように思う。普通のドライバーも、スピードを楽しむ時、遠くに出かける時、我々は、我々の「力」が拡大していると感じているはずだ。 実際には、その「力」を可能にしているのは、機械の「力」なのだが。それは、無意識のうちには人間の「力」として意識される。(事故や故障で車が動かなくなったときに、我々の力でなかったことに気づく。)車のように、個人が所有できる機械の力は、個人のものである。 ただ、別の考えもある。フェラーリの車の力は、それを作ったフェラーリのものだし、iPhoneの力は、アップルのものでもある。技術的な製造物の力は、それを作った企業に帰属する。 北朝鮮のミサイルや核兵器の力は、金正恩の力である。(個人に戻っちゃった。)戦争する「力」は、たいていは、国家の能力である。 もっと面倒なものもある。電気・水道・ガスといった「社会的インフラ」の力だ。それが上手く機能しないと大変なことになるのを、最近、経験したばかりなのだが。 北海道の電気の力の「所有者」は、北海道電力なのかな? そうかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。 我々には身近な「インターネット」や「ネットワーク」についても、その力の淵源がどのあたりにあるのjか、また、その力は誰のものなのかを考えると、いろいろ面白い問題にぶつかる。 注意して欲しいのは、こうした議論に迷いこむのは、機械あるいは機械から構成されるシステムの「力」の概念が曖昧だというわけではないということだ。それらの「力」は、その「力」の欠如と対比すれば、誰