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グロタンディーク七周忌

【 グロタンディーク七周忌 】 7年前の今日、グロタンディークが亡くなった。 日本風に言えば、今日が七周忌だ。 もっとも、そんなこと覚えていたわけではない。 Facebookの「過去のこの日」「思い出」というページに、7年前の僕の短い投稿が残っていた。 ---------------------------------------- グロタンディークがなくなった。 Toposも、最近のHomotopy Type Theoryも、彼なしには生まれなかったと思う。ただ、それは彼の仕事が及ぼした影響の一部に過ぎない。彼のビジョンは、今もまだ、生きている。 東京から稚内に行こうとしたとき、友人が、SGAをプレゼントしてくれた。 一番嬉しいたむけだった。 冥福を祈る。 ---------------------------------------- Facebookの「過去のこの日」の機能は、素晴らしい。なんせ、自分が忘れたことを覚えてくれているのだから。でも、グロタンディックが亡くなってから、Facebookに彼について投稿したことを思いだした。 Facebookへの投稿は、タイムラインの流れとともに消えていく。改めて、シェアし直したところで、やはり、いっときは何人かの目には止まるだろうが、やはり消えていくだろう。悪いことに、自分だって何を書いたのか忘れてしまうこともある。すこし、虚しいと思う。 いくつかのFacebookへの投稿を、自分のblogに再収録しようかなと思っている。 グロタンディック 追悼投稿 「無言の誓い」   「有名な数学者も間違える」 丸山 blog https://maruyama097.blogspot.com/

黒板とチョーク

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4年前(   2017年11月13日)のFBへの投稿から ============================= 30年近く、講義・講演はプロジェクターを使って来た。ビジュアルな情報があった方が、聴く方にもわかりやすいと思うし、話す方はデータが再利用できる。 でも、話せば伝わることとビジュアルな表現で伝えた方がいいこととの区別は、どこにあるのだろう?と考えたら、こんな例を思いついた。 図1は、先頃亡くなっらVoevodskyの証明の一部(だと思う) https://goo.gl/3y79Zb から。これを、口でしゃべったら、絶対うまく伝わらない。 (ただ、この例は、すごいのだ。僕は、カテゴリー論をちょっとかじったことがあるので二次元のdiagramなら、少しは追えるのだが、Voevodsky は、三次元で証明組み立てている!) ただ、こうしたdiagramをプロジェクター用に、LaTexで組むのは大変なのだ。(もちろん、根性があればできるし、データは再利用できるのだが) 図2は、Deep LearningのKarpathyが、RNNを使って、Stack Theoryの分厚い教科書を学習させて、数学論文の「モノマネ」をさせたもの。 https://goo.gl/FGtFGS (グロタンディックをおちょくってるのかと思うけど、ま、面白いから許す。) それはさておき、左側は見事に数学論文のマネをしているのだが、右側の上の方を見て欲しい。明らかに、diagramをマネる事に失敗している。ざまあみろだ。 Voevodskyがすごいのは、図1のような証明を、コンピュータにやらせるシステムを作ろうとしていた事。それは、この図を冒頭に掲げた彼の論文 "The Origins and Motivations of Univalent Foundations" https://goo.gl/3y79Zb を読めばわかる。 じゃ、Voevodskyは、論文やプロジェクターではなく、講義をする時には、どうしていたのだろう。 答えは、簡単である。 黒板にチョークで図を書いていたのである。 2011年ごろ、プリンストンの彼の講義のビデオをみて、ディジタル万歳の僕は、ちょっと軽いカルチャーショックを受けた。 でも、黒板とチョークの方が、合理的で効率的なのだ。間違っ

Maria Popova "10 Learnings from 10 Years of Brain Pickings"

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5年前( 2016年11月12日)のFBへの投稿から ============================= Brain Pickingのマリア・パポーバが、「Brain Picking 10年の10の教訓」というのをまとめている。 https://goo.gl/uJAXcV  1. 自分の心を変えるという、愉快ではない贅沢を許しなさい。  2. 名声や地位やお金や承認欲求のためには、何もしないこと。  3. 寛大であれ。  4. 自分の人生の中に、静寂のポケットを作りなさい。  5. 「あなたは何者なの」と問う人がいたら、その人を信じないこと。  6. 現実は、はるかに複雑で、芸術に値する。生産性よりも。  7. 実現に長い時間を要する価値あるものに期待しなさい。  8. あなたの精神を拡大するものを見つけ出しなさい。  9. 理想主義者であることを恐れないこと。  10. 皮肉なものの見方に、ただ抵抗するだけでなく、それと戦いなさい。 Brain Pickingが話題になった頃、サブスクライブしていたのだが、ちゃんと読み始めたのは、少し時間に余裕ができてからだ。僕のいるITの世界とは、ずいぶん違う世界かもしれない。 マリアは、ニューヨークで活動しているが、ブルガリア人だ。まだ、32歳。こうしたヨーロッパの知性をアメリカは受け入れてきた。 僕の好きな数理物理学者のJohn Baezのおじいさんは、メキシコからアメリカに移ってきた。(フォーク歌手のJoan Baezのおじいさんでもある) 今年、女性で初めて数学のフィールド賞をとった、マリアム・ミルザハニは、スタンフォード大にいるが、イラン人だ。 同じく、僕の好きな Scott Aaronsonの昨日のblogは、悲痛なものだった。彼のblogの名前は、彼の父祖が住んでいたヨーロッパのユダヤ人の街から取られている。 https://goo.gl/bLrwMn   I will sadly understand if foreign students and postdocs no longer wish to study in the US, or if foreign researchers no longer wish to enter the US even for conferences and vis

啓蒙時代の暗褐色の星

2年前( 2019年11月10日 )のFBへの投稿から ============================= シェイクスピアの「オセロ」は、将軍オセロが部下イアーゴの奸計にはまって、嫉妬心を爆発させ、無実の妻デズデモーナを自ら手にかけて殺し、自滅する話だ。この戯曲は、17世紀の20年代に初演されている。 「オセロ」の舞台はヴェニスで、将軍オセロはトルコ軍と戦っている。ただ、時代はわからない。当時のヨーロッパで、黒人のオセロが将軍になることが実際にありえたのか、ちょっと引っかかっていた。 この間聴いていた二つのオペラ「エフゲニーー・オネーギン」と「椿姫」の原作をチェックしていて、面白いことに気づいた。何に気づいたかというと、二つのオペラの原作者には、黒人の将軍の血が流れていたのである。 チャイコフスキーのオペラ「エフゲニー・オネーギン」の原作は、19世紀のロシアの「国民的詩人」プーシキンの同名の韻文小説(1825-1832)だ。 ヴェルディのオペラ「椿姫」の原作は、「三銃士」や「巌窟王」で有名なアレクサンドラ・デュマ(大デュマ)の同名の息子アレクサンドラ・デュマ(小デュマ)の「椿姫」だ。 プーシキンの曽祖父は黒人で、ピュートル一世の時代のロシアで軍人として活躍し少将だった。デュマ(小デュマ)の曽祖母は黒人で、黒人との混血の祖父は、ナポレオンの時代のフランスで、中将にまで昇進する。 プーシキンの曽祖父、アブラム・ペトロヴィチ・ガンニバル(ハンニバルだ!)は、7歳の時、コンスタンチノープルの奴隷市場で売りに出されていた。彼に目をつけたのは、トルストイの曽祖父だったという。ピュートル一世は、彼をフランスに送り、教育を受けさせる。 「パリで、彼は啓蒙時代の象徴ディドロ、モンテスキュー、ヴォルテールと親交を結んだ。ヴォルテールはガンニバルを、『啓蒙時代の暗褐色の星』と呼んだ。」優秀だったのだろう。 プーシキンは、この黒人の曽祖父を非常に誇りにしていた。「1830年に「私の系譜」という短い詩を書いているが、600年に渡る父方の祖先については35行で書いた一方、アブラムだけで20行の詩を捧げている」 (そういえば、先日ビデオで見た、オペラ「エフゲニー・オネーギン」のパリのサロンの場面で、黒人士官が白人女性と一緒に参加していたような気がする。ビデオが手元にないので、確認できない

自然と人間と科学 1

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目の前から、人間が作ったもの、人間に関わるものを、すべて消してみましょう。それでも、自然はあるがままの姿で、広がっているように思えます。野に咲く花も、空を飛ぶ鳥も、木々をゆらす風も、夜空の星も。 ただ、そうした空想を行うことが、だんだん、難しくなっています。人間のいない世界のイメージといえば、「廃墟」のイメージを持つ人がむしろ多いかもしれません。それでも自然は残ると僕は思うのですが。それは、私たちの日常的な視界から、自然が見えにくくなっているからだと思います。 一方で、現代は科学の時代だと多くの人が考えています。ただ、科学の主要な対象である自然から、私たちは、どんどん遠ざかっています。そのことは、自然に対する関心だけでなく、いずれ、科学に対する関心をも失わせる力として働くことになると感じています。 科学を私たちにとって疎遠なものにする、もう一つの大きな力があります。 それは、そもそも、科学が歴史的には、冒頭に述べたような素朴な自然観から、自分を意識的に分離することで生まれたことによるものです。 私たちの遠い遠い祖先は、自然と深く結びついていました。というより、圧倒的な自然の力の前に人間は無力でした。ただ、自然に対する畏怖・感嘆の念を持ち得たことは、人間を他の動物とを区別するものです。それは、その後、宗教・芸術・科学等に枝わかれしていく、すべての人間の営みの原始の共通の起源になりました。 時間を何万年か進めます。話は少し飛躍します。 現代では、科学は、主要に「科学者」という専門家集団によって担われています。彼らは、特殊な訓練を受け、特殊な言葉で話します。その言葉は、一般には、わかりにくいものです。 「科学者」が人口に占める割合は、大きなものではありません。おそらく宗教が支配的であった時代、どの村々にも必ず存在していた神職者が人口の中で占めていた比率を上回ることはないと思います。 (科学の世界では、博士号を取得した科学者の卵たちの「過剰」に悩まされています。それは、社会的には「構造的な問題」なのですが、僕は、むしろ、歴史的には必然的な傾向のように考えることができると思っています。) それでは、なぜ、多くの人は、実際にはかなり疎遠なものでしかない科学に対して、現代は「科学の時代」だと考えるのでしょう? その理由は、明確だと思います。「科学」の応用としての「技術」が、現代の

すみっこぐらし一年

 【すみっこぐらし一年】 去年の3月28日、稚内行きの飛行機に乗りました。稚内での生活、今日でちょうど一年になります。 東京脱出の日付を確認しようとして、自分のFacebookをチェックしたのですが、投稿が見つかりません。避難生活がそんなに長引くとは思っていなかったんで、みなには黙って抜け駆けしたんですね。 一年前の3月27日に、大橋のミスルトさんでセミナーをやっていました。ただし、大橋のミスルトさんで収録して、セミナー自体は、初めてリモートでやったんですね。 セミナーの収録が終わって、コンビニによったら、食べ物の棚がまったく空っぽになっているのを見てショックを受けました。いまは、そういうことないと思いますが。 何度か、東京に戻ろうとしたのですが、飛行機は飛ばず、状況もよくならず。一時避難だと思っていたのですが、予想外のことが続きました。 でも、今では、稚内で一年過ごして良かったと思っています。新しい分野での認識も深まったし、セミナーも継続できたし。 すみっこぐらし、続けようと思っています。

自分の部屋を持ちなさい

「僕はAndroid」だ。 それでclubhouseに部屋を持てない。(iPadで入ることができたのだが、まだ始めていない。) 「僕はうなぎ」「彼はたぬき」「彼女はキツネ」 米津の「迷える羊」というアルバムに、「馬と鹿」という曲を見つけた時、ちょっと笑った。動物づくしをしたいわけではないのだが。実は、彼はAndroidだったので、clubhouseに入れなかったらしい。 冒頭のフレーズは、ある女性作家が、「女性」と「小説」について質問された時、答えた言葉だ。男性との差別に苦しむ女性、創作を志す女性に対するアドバイスだ。  「自分自身の部屋を持ちなさい。そして、お金も。」 興味深いのは、彼女がこのエッセイで紹介している、かつて、女性は自分の才能を発揮することが、いかに困難だったかをしめす、次のようなエピソードだ。(若干、補足が必要なのだが、それは後日。) シェイクスピアには、Judithという、彼と同じように才能に溢れた妹がいた。兄のように学校に行くことを許されず、両親に望まぬ結婚を押し付けられた彼女は、家出をしてロンドンに出て、兄と同じ役者の道を目指す。ただ、その道は厳しかった。 ある冬の夜、彼女は自殺する。彼女は、Elephant & Castle 郊外の、今はバスが通っている十字路の近くに埋葬された。  「自分自身の部屋を持ちなさい。そして、お金も。」 僕にとっても、いいアドバイスだと思う。 --------------------------------------------- Shakespeare had a wonderfully gifted sister, called Judith, let us say. Shakespeare himself went, very probably,—his mother was an heiress—to the grammar school, where he may have learnt Latin—Ovid, Virgil and Horace—and the elements of grammar and logic. He was, it is well known, a wild boy who poached rabbits, perhaps shot a deer, and had, ra

エンタングルメントをめぐるドラマ#1

【3/27 「楽しい科学」ダイジェスト -- エンタングルメントをめぐるドラマ #1】 科学の世界は、いろいろなドラマに溢れています。 今回の 3/27「楽しい科学」では、「エンタングルメント」を舞台にしたドラマを紹介したいと思います。https://science-entanglement.peatix.com/ ------------------------------------------------------------ 最初の登場人物はアインシュタインです。彼は、量子論では、二つの量子がもつれあう奇妙な状態が現れることを発見します。1935年のことです。その現象に「エンタングルメント」という名前をつけたのは、シュレディンガーだと言われています。 アインシュタインは、もつれあう量子は強く関連した性質を持ち、一方の性質は他方の性質から簡単に決定できること、そのうえ、こうしたもつれあいは、二つの量子の距離に依存しないことに気付きます。 このことは、二つの量子がどんなに離れていても、一方の量子の状態を観測すれば、テレパシーのように、他方の量子の状態が分かることを意味します。「そんな馬鹿なことはありえない。それだと、光のスピードを超えて情報が伝わることになるじゃないか。」 彼は、量子論が不完全な理論であることを示す「パラドックス」として、「エンタングルメント」を提示したのです。ところが、ボーアをはじめとする量子論の陣営は、このアインシュタインの「量子論批判」を、事実上、無視します。 アインシュタインの「神はサイコロをふらない」という言葉がしめすように、彼は最後まで、量子論に懐疑的であったと言われています。 エンタングルメントをめぐるドラマで、アインシュタインに次ぐ重要な役割を演じる第二の登場人物は、ジョン・ベルです。彼と彼の業績が、多くの人にはあまり知られていないのは、とても残念なことです。 ベルは、アインシュタインらが量子論の不完全さを解決するものとして推進した「隠れた変数」理論を、理論的に否定することに成功します。しかも、自然が、「隠れた変数」理論という古典論に従うか、あるいはエンタングルメントを含む量子論に従うかは、実験的に検証できると指摘します。 事実、アスペたちは、1982年、ベルの主張が正しいことを実験で実証します。ここに、アインシュタインの発見か

Accountable Nature

 【Accountable Nature】 白い大きな壁に「可解」と言う文字が書かれていた。 昨日テレビで見た見た、松山智一の上海での個展の会場の入り口の映像だ。 気になって調べてみる。 「Accountable Nature 自然 --- 可解」と言うのが、個展のタイトルだった。 https://bijutsutecho.com/magazine/news/exhibition/22908 松山は英語がうまい。Accountableを「可解」と訳すのは、あまり見たことがなかったのだが。"Accountable Nature"、面白いコンセプトだと思う。 先の「美術手帖」の解説では、「 自然とデジタル、現実と非現実といったいまの時代を構築する不安定な二項対立を描きだす作品群 」だという。あるいは、作家本人もそう考えているのかもしれないが。 ただ、"Accountable Nature" は、「可解な自然」ではないか? そこには、「二項対立」はない。 「人間と自然」は、「 いまの時代を構築する不安定な二項対立 」の主要な焦点のひとつだ。科学もまた、人間による自然理解の試みとして、この二項を媒介するものだと、僕は思っている。 「説明可能性」としての"Accountable"は、「ことばで表現できる」ことだ。"Countable"であることもまた、「ことばで表現できる」ことと同義である。「可算=数え上げることができること」を、countableとかenumerableというのだが、 科学では、「可算」であることは、問題が「可解」であることの条件だ。 もっとも、彼の表現をになっているのは、ことばではない。彼が志向しているのも科学ではないだろう。 だから、僕らは、科学とは限らない人間による自然の表現を、あるいは、自然と人間の媒介を人間に可能にするものは、何かを考えないといけない。 「自然と人間」「科学と表現」「可解なものと不可解なもの」「有限と無限」 ...... たまたま、松山が出ていた前日の番組にBumpの藤原基央が出ていた。この前、引用した詩は、藤原のものだ。藤原と松山は、ほぼ同じ世代だということに気づく。

「三体」

As a science fiction writer who began as a fan, I do not use my fiction as a disguised way to criticize the reality of the present. I feel that the greatest appeal of science fiction is the creation of numerous imaginary worlds outside of reality. I’ve always felt that the greatest and most beautiful stories in the history of humanity were not sung by wandering bards or written by playwrights and novelists, but told by science. The stories of science are far more magnificent, grand, involved, profound, thrilling, strange, terrifying, mysterious, and even emotional, compared to the stories told by literature. 一人のファンとして始まったSF作家として、私は、現在の現実を批判するための偽装として自分の創作を利用することはない。SFの最大の魅力は、現実の外に無数の空想世界を作り出すことにあると私は感じている。私は、人類の歴史において、最大の最も美しい物語は、吟遊詩人によって歌われたものでも、戯曲家や小説家によって書かれたものでもなく、科学によって語られたものだと、いつも感じてきた。科学の物語は、はるかに壮麗で、偉大で、感動的で、深遠で、スリリングで、奇妙で、人をおののかせ、神秘的である。それは、文学によって語られる物語たちと比較しても、より感情に訴えるものでさえある。

《「ないことを考える」という点において、科学とフィクションは似ているそうです》

8/1 丸山 x 山賀対談「科学と虚構の未来を語る」の司会をお願いした、角川アスキー総研の 遠藤 諭 さんからの推薦文です。 《「ないことを考える」という点において、科学とフィクションは似ているそうです》  『UNIX MAGAZINE』の「クラウドコンピューティング」を解説した原稿が、私にとって丸山不二夫さんの文章を読んだはじめだと思います。  たぶん、クラウドコンピューティングって「遠くにあるコンピューターを使うことでしょ」くらいにしか考えていない人は多い。私もそうで、せいぜい「ネットワーク上のコンピューター資源がサービスインフラとして提供されるものである」などともっともしい説明をするくらいが関の山でした。ところが、丸山さんの記事は海外論文を読み、「クラウドコンピューティング」を可能たらしめる理論や技術についての解説だったのでした。  その頃に最も注目される動きだったのに、誰もきちんとみんなが読める形では説明していなかった。そのことに驚いたし、「これを書いた人はとても役に立つ」(失礼!)と思ったのでした。なおかつ、話を聞く人にそのことの理解を助けるためのなにかを印象づける仕掛けが、丸山さんのお話にはある。  7月某日、今回の対談のために神楽坂で丸山さんと山賀博之さんの事前打ち合わせというのが行われました。このお二人なので、科学とフィクションというところを起点にどんどん話がすすみます。  その中で「惑星」の話が出てきました。地動説時代の我々は、地球を含めて惑星は太陽のまわりをコンパスで描いたような綺麗な軌道にお行儀よく回っていると思い描いていると思います。ところが、月や太陽と異なり、地球から見た惑星は、行ったり来たりループを描いたりと複雑な動きをするわけです。そこで、丸山さんは、 「だから惑う(まどう)星で惑星なんですね」 とポツリとタネ明かし的なことを言う(ご存じの方もおられるでしょうが、プラネット=ギリシャ語のさまようものが語源だそうです)。これ「信じる」ということについてのお話で出てきたのですが、これによって、ビジュアルイメージになる。しかも、我々の頭上にずっとあったのに誰も真面目に見てくれないから「惑星」という名前の由来も忘れられていたという余韻を残す声の調子なので、少しばかり詩情が漂う。  このあたりが、丸山不二夫式の

何かが欠けている

人工知能技術というのは、最終的には、人間の知能の機械による代替を目指す技術です。 ただ、人間の知能といってもいろいろあります。人間の知能自身が、生物学的な進化や文明史的な進歩の産物として、歴史的に形成された階層構造をもつのですから、それぞれの階層に対応する人工知能技術が存在します。 以下に、それぞれの知能の階層に対応する、現在の人口知能技術をあげてみました。 これらの技術は、知能のある能力の一面をカバーするのですが、一つの人工知能技術が、人間の知能を全てカバーすることはないと僕は考えている。 ただ、多分、問題はその先にもあります。こうした現在芽生え始めたばかりの人工知能技術が成熟すると、我々は「考える機械」「人間と同じ機械」を構成できるのだろうかという問題です。僕は、まだ、何かが欠けていると感じています。 感情、自由意志、創造性、芸術、.... こうした人間にとっては、ある意味もっとも人間らしい能力を、機械は獲得できるのか? そのことは、人工知能の「研究者」じゃない多くの人が、自然に感じている疑問です。 そのあたりの問題を 「8/1 丸山x山賀対談「科学と虚構の未来を語る」」で話せればと思います。 もちろん、答えはありません。

科学と虚構

科学には、いろいろな分野あります。自然科学、社会科学、人文科学 ... 。 ただ、現代では科学といえば、自然科学をさすことが普通なようです。で、他の科学は無視して、今日は自然科学の話をしようと思います。でも、自然科学にも、いろいろあります。数学、物理学、生命科学、情報科学....。 個人的な話ですが、こうして科学の分類をしていくと、実は、僕は困ることになります。さきに、社会科学、人文科学は無視しようと書いたのですが、僕は大学院では、数理哲学を研究していました。哲学は、普通、人文科学ですよね。さらに、僕の入った大学院は、社会学研究科の中に哲学の講座があったので、僕は、社会学の学位をもらうことになります。 最初に、科学という言葉でイメージされているものについて話そうと思います。 科学を、確実にわかっているものたちから、確実だと思われる結果のみを導こうとする方法だと考えるのは、少し窮屈な科学観だと僕は感じています。数学でも、そうです。数学的に正しい命題は、どんな具体的な知識も前提にせずに導かれるという意味では、情報を持ちません。ただ、そうした数学観では、数学の世界はトリビアルなトートロジーの世界になってしまいます。 科学者や数学者を動機づけているのは、そういう研究をしたいということではないと思います。彼らを突き動かしているのは、そこに理解できないこと、一見すると手が出ないほど複雑なこと、とても不思議な「謎」があるということです。科学と科学では解かれていない「謎」があるという認識は、両立可能です。 むしろ、「謎」がない世界では、科学は必要なくなります。だから、なんでも説明できる究極の理論があるとか、全ての「謎」は解けているという主張を、僕は疑います。 類人猿の中から、僕らの祖先が、多分、言語能力の獲得をきっかけに「人類」として独立した時、人間の認識能力は飛躍的に発達しました。アフリカの平原で満点の星空を見て、我々の祖先が感じたものは、無数の「謎」だったと思います。 ただ、彼は「畏怖」の念に打ちひしがれていただけではなかったと思います。「なぜ?」という問いかけは、別の行動を生み出します。おそらく、科学も宗教も哲学も芸術も、プリミティブな形では、別々のものに分離されずに、同時に生まれたと僕は思っています。 科学の源流は古代ギリシャの自然哲学です

「先生、シンギュラリティの話、しないんですか?」

今度、山賀さんと「科学と虚構の未来」というテーマで対談をするのだが、こんな質問が。確かに、このテーマなら、今ならある意味ど真ん中の質問なのだと思うのだが、残念ながら、僕は、あまのじゃくなのだ。というか、僕は、シンギュラリティの議論が嫌いなのだ。 「人間より機械が賢くなって、人間が滅びる」? その辺の機械より人間が愚かになっても人間は滅びるだろう。パイロットが、自分の自殺(なんかおかしい表現)の為に乗客を道連れにする事件があったが、愚かなことだとは思うが、「核」の引き金を引くのは、一人か二人かの人間で十分なのだ。それでも何十億人を道連れにできる。パイロットの「精神鑑定」は強化できるかもしれないが、核を持つ権力者の精神鑑定はできるのだろうか。 「人間を機械が支配するようになる」? 機械は、人間を支配したがるだろうか? なんのため? こうした発想は、支配したがるのは、機械というより人間の発想だと思う。 もしも、人間を機械が支配する世界が来るのなら、その前に、必ず、機械を支配する少数の人間が、多数の人間を支配する段階を経るだろうと僕は思う。そして、そうした過程は、始まっているようにも思う。 機械だけが敵とは限らない。目に見えないウィルスのパンデミックで、人類は滅亡するかもしれないし、それよりもっとずっとありそうなことは、環境問題が深刻化して、地上の生物が絶滅することだ。すでに、その兆候は出ている。多くの種が、かつてないスピードで地上から消えている。この引き金を引いたのは、多くの生物種を道連れにしようとしているのは、我々人間なのは間違いない。 地球の歴史の中で、こうした大量絶滅は何度かあった。それでも、生命は途切れることなく続いてきた。人間が地球からいなくなることが、地球と生命にとって悪いことだとは限らない。 僕は、この宇宙には、「知的な生命体」が無数に存在すると思う。ボエジャーは、いまは、秒速何十キロメーターかで太陽系から飛び出そうとしているが、そこには、宇宙人へのメッセージを刻んだプレートが搭載されていた。そのプレートは、宇宙人の手に渡るだろうか? その可能性は、落としたクレジットカードが善意の誰かに拾われて本人の元に返る可能性より、ずっとずっと、気が遠くなるほど、ずっと低いと思う。 でも、彼らは、この地球で起きるかもしれないという「シ

Ex Libris

FacebookのLibraが話題だが、「Libraから」"Ex Libris"という題名の映画を見た。(これ嘘。libris は、ラテン語 liber の複数奪格。Libraはラテン語ではない。)「ニューヨーク公共図書館」という映画だ。 僕は、ほとんど紙の本を読まない。当然、図書館とは無縁の生活を送っている。ネットがあれば、紙の本も図書館もいらないと思っているのだ。ただ、この映画は、そういう僕にも、本当にそれでいいのかを、改めて考えさせるきっかけになったように思う。 この映画のメッセージは、「ネットの時代、複雑な現代に、図書館は変わろうとしている」というものだと思うが、そういう動き、図書館の具体的な取り組みを、僕は知らなかった。それは、「公共」性を旗印にした、とても魅力的なものだった。 映画冒頭、「利己的遺伝子」のドーキンスの市民向けの講座が出てくる。奇矯な人だと思い込んでいたが、とてもまともな人だった。ダーウィンの進化論を否定する「創造論教育」を批判し、「無宗教者」の権利について語っていた。それはそれで、アメリカでは「過激」な主張なのかもしれないが。 「過激」といえば、かつて パンク/ニューウェーブの旗手の一人だった エルビス・コステロも市民に向けて語っている。やはり歌手だったお父さんの映像を司会者と一緒に見ていた。なんとなく セックス・ピストルズとコステロの、その後の歩んだ道の違いがわかったように感じた。「敵だから認知症で死んでしまえとは思わないが、サッチャーがイギリスにしたことは許せない。」まだ元気である。(コステロ、今月、日本に来るんだ。) パティ・スミスが、ジャン・ジュネについて語っている。ジャン・ジュネは XXX-Tentacionと同じく「犯罪者にして芸術家」という類型に属するのだが、そうしたアーティストへの「共感」が語られる。文学講座では、僕の好きなガルシア・マルケスの作品が取り上げられていた。 最近のアメリカを見ていて、なんだかなと感じていたのだが、そうした印象は表面的だったのかもしれない。 アメリカは、イギリスからの植民地独立戦争と奴隷制解放の内戦である南北戦争という自身が経験した二つの戦争の意味を、市民レベルで、いまでも、問い続けている。そのことは、この映画で示されている、かつての黒人奴隷の子

R.I.P.

最近、よくオペラを聴いている。 クラシックは嫌いじゃないのだが、オペラはあまり好きじゃなかった。だいたい、聴いても歌の意味がわからないし、歌声が耳になじめない。 でも、 「鶏の首を締めたような」というけど、実は、「夜の女王」は大好きなのだ。どう首を絞めたって、鶏にあんな歌い方をさせるのは難しいだろう。 歌の意味がわからないというけど、少しは分かる英語でも、Eminemの歌詞、聞き取れたためしはない。 マタイは、意味はわからないけど、若い時からレコードが擦り切れほど聴いてきた(これ、言い回しが古い。今なら、「ギガがなくなるほど」というべきかな。) どんなにマタイが好きだったかといえば、当時の親しい友人に「僕の葬式にはこの曲かけて」と、 Erbarme dich を指定した。迷惑な話だったと思う。それから50年近くたっても、まだ、依頼人はピンピンしているのだから。今は、葬式の曲は、Lady GaGaでもいいやと思っているのだから勝手なものだ。 わかったことは、僕は、これまでモーツアルト以外のオペラを聴こうと思わなかったということ。 趣味のことだから、好き嫌いがあるのは当然である。 一転してオペラを聴き始めたのは、若い友人のテフ君が主催する「オペラ勉強会」に参加するようになってからだ。昨日が5回目だった。いつもは人の前で一方的に話すことが多いのだが、人の話を聞くのは楽しい。 ちょうど一年前の6月18日、二十歳のラッパー XXXtentacionが死んだ。若い才能が、いとも簡単に路上で殺されたのだがショックだった。一周忌には、何か書こうと思っていたのだが、その日を忘れていた。きっと何かのオペラを聴いていたのかもしれない。忘れてごめんなさい。  「XXXtentacion 安らかに眠れ!」 と書きたいところだが、どうもこのセリフが陳腐に思えて、筆が進まない。 若い男が教会の扉を開け、誰かの葬式に出る。まっすぐに花で飾られた祭壇に向かって進み、棺を見ると、そこに横たわっているのは自分だった。突然、その死体が起きあがり、棺から飛び出して自分に殴りかかる。その後は、二人の暴力的な殴り合いが延々と続く。死んだはずの自分と、生きているはずの自分の死闘だ。 きっと、生きていても死んでいても、安らかには眠れない人がいるのだろう。 URLを

丸山の7月の講演について

やっと、7月の三つのセミナーの告知ページができました! 7/6 角川ハンズオン「量子コンピュータで学ぶ量子プログラミング入門」 https://lab-kadokawa82.peatix.com/ 7/9 角川セミナー「初めてディープラーニングを学ぶ人のための数学入門〜ニューラルネットで行列を理解する〜」 https://lab-kadokawa83.peatix.com/ 7/29 マルレク 「Yet Another AI -- RPAは「推論エンジン」の夢を見るか」 https://yet-another-ai.peatix.com/ ふー。 〜 はたらけど   はたらけど なお わがくらし らくにならざり   ぢっとてをみる 〜 とうかいの こじまのいその しろすなに   われなきぬれて   かにとたわむる 僕の場合、泣きぬれてたわむれているのは、「かに」じゃなくて「パワポ」です。

アーリー・アダプターの為の、技術と科学の未来講座

Facebookのマルレク+MaruLaboページを更新して、あらためてマルレク+MaruLaboの目標を明確にしました。 新しいページの「ストーリー」をご覧ください。 「マルレク+MaruLaboは、IT 技術のアーリー・アダプターを主要な対象として、技術と科学の未来を展望する上で丸山が重要と考えるトピックについて、出来るだけ新しい情報を、出来るだけわかりやすく、出来るだけ多くの⼈に、伝えていくことを⽬標にしています。」 新しい趣旨に賛同いただけたら、Facebookのマルレク+MaruLaboページにも、「いいね」お願いします。 【重要かも】 なぜか(多分、僕がミスったのでしょう)、 マルレク+MaruLaboのFacebookページのURLが、 https://www.facebook.com/marulec2018/ から、 https://www.facebook.com/marulec2019/ に変わりました。 マルレク + MaruLabo コミュニティ · 「いいね!」3,459件

Daniel Harlow

ダニエル・ハーローは、少しジム・キャリーに似ているイケメン物理学者である。 5月の連休に配信元のトラブルで、彼のビデオの一部が見れなかったので、セミナーがひとつ終わったこの土日、彼のレクチャーを6~7本ほどをYoutubeでまとめて観た。面白かった。 AMPSパラドックス(ブラックホールの情報問題の難問)を「量子複雑性」の理論で解決し、現在の物理学の中心的なスキーマであるAdS/CFT対応の解釈に「量子エラー訂正理論」を持ち込み、量子重力ではこれまでの物理のアイデアの支柱だった「対称性」が破れることを示すなど活躍が続いている。 彼のアプローチの特徴は、物理学に情報の理論を持ち込むこと。写真は、2年前のスタンフォードでのComplex Workshopの一コマ。テーマは、"Hardware+Software in Physics" 彼らしい問題意識だ。http://bit.ly/2WWZyUz  2-30人ほどの小さな規模のワークショップだが、彼のセッションには、サスキンド、マルデセナ、アーロンソンが参加していた。すごい。(僕は、Youtubeで彼らの顔はよく知っているのだ。) arXivのおかげで、図書館がなくてもあまり困らなくなったのだが、Youtubeのおかげで学会に行かなくてもよくなっている。(ちょっと極論かもしれないが、物理に関しては、この数年のビデオ配信の広がりは目をみはるほどだ。) これまでは、論文を読むしかなかったのだが、最近、僕は、論文読む前に、著者とテーマでビデオを探す。そのあとで論文を読む。そっちの方がずっと効率的に学べる。 いい時代になったものだ。 (二日だけ自由な時間をとったのだが。また、セミナーの準備に戻らないと)

生命表

去年生まれたばかりの孫の「平均寿命」が80歳だというのに、僕の歳に「平均余命」を足すと85歳になる。 新しい世代の寿命はどんどん伸びているはずなのに、僕の方が、僕の孫より5年長生きする? なんかおかしい。 でも、少し考えたら、この5年の差に思い当たった。 僕から見れば、同じ世代の何人かはすでになくなっているということ。生き延びているだけラッキーなのかも。人生は悲しいものだ。 孫から見れば、これからの平均80年の人生、何が起きるかわからないということ。いのちを大事にするんだよ。人生は厳しいんだよ。 〜「命数知るべからず」 〜  「 わたしが思い描く 神 々の図というのは、オリュンポスの山でごろご ろ  しながら、甘美な 神 の酒と食べ物に溺れ、骨と脂身を焼いた芳香に  つつまれ、病気の猫にちょっかいを出す十歳の子の集団みたいに  イタズラで、時間をもてあましている、というもの。  「今日はどの祈りを聞き届けてやろうか?」と、顔を見あわせ、  「 サイコロ をふって決めよう!こいつには希望を、あいつには絶望 を。  でもって、こうして仕事をしている間にも、あの女の人生を  めちゃくちゃにしてやれ。ザリガニに化けて彼女とセックスしてさ !」   神 々は退屈まぎれに、山ほど悪さをしているに違いない。 」