複雑性理論と人工知能技術(8) 中間まとめ

「虫や魚には「理解」できないことがあるだろう」と多くの人は考える。ただ、人間にも「理解」できないことはある。

このことを、数学の世界で「数学的には、証明できない数学的命題がある」という形で、最初に定式化したのは、ゲーデルである。1930年代のはじめである。

我々の認識の可能性とその限界については、数学が一番鋭敏な感受性を持っていると思う。

「証明(計算)可能性」については、「計算可能というのは、帰納関数として定義されるものだと考えよう」というまとめがなされ、数学的には一段落する。これを、「チャーチ=チューリングのテーゼ」という。もっとも、この「テーゼ」自身は、まったく数学的命題ではないのだが。1950年代のことである。

一段落したといったが、もちろん、ゲーデルの不完全性定理は、「人間の認識の限界」について、山のような議論を巻き起こした。これらの有象無象の議論の中で、出色のものが一つあった。それは「機械は考えることができるか?」というチューリングの問題提起だったと僕は考えている。

数学的な命題であるゲーデルの定理を、いろいろ拡大解釈して人間の認識の限界と結びつけるのではなく、「機械だって、人間のように考えることができるんじゃないの?」と、機械の認識の可能性を対置したのだから。

この論文は、「人工知能」研究の扉を開くことになる。

残念ながら、こうした論点を深めることなく、チューリングは、世をはかなんで自殺してしまう。

「計算可能性理論」が、大きな転機を迎えるのは、1980年代に入ってからだ。

ファインマンが、コンピュータでは量子力学の法則に従う自然のシミュレートができないことに気づく。彼は、自然のシミュレートが可能なコンピュータは、量子力学の法則に従ったコンピュータでなければならないと主張する。

この指摘が、「量子コンピュータ」研究の始まりである。

数学的体系と同様に、自然もまた、我々の認識の対象である。数学だけでなく、物理学もまた、我々の認識の可能性と限界について、強い関心を持っているのだ。

ドイッチェは、ファインマンの考えを受けて、チューリングマシンの量子版を構成し、こうした量子チューリング・マシンで計算可能なものが計算可能であるとする。これを、計算可能性についての「チャーチ=チューリング=ドイッチェのテーゼ」という。

一見すると、同じような定式化に思えるのだが、本質的な違いがあるのだ。

「チャーチ=チューリングのテーゼ」は、抽象的・形式的・数学的な「計算可能性」の定義についての提言なのだが、「チャーチ=チューリング=ドイッチェのテーゼ」は、「計算可能性」が、実在的・物理的に定義されねばならないと主張しているのだ。

「チャーチ=チューリングのテーゼ」は、いわば、遠くの雲の上に抽象的に存在する原理だったのだが、「チャーチ=チューリング=ドイッチェのテーゼ」は、地上に降りた現実の物理的原理だ。

重要なことは、こうした「計算可能性」概念の「物理化」の背景にある思想である。それは、情報過程が、けっして抽象的なものではなく、物理的なものに支えられた物理過程に他ならないという考えである。

ただ、80年代は、まだ、量子コンピュータは概念としてしか存在していなかった。「計算可能性」の物理化という画期的な変化も、まだまだ、抽象的な議論だった。


それが大きく変わるのである。



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寝ないで、ポンチ絵を書いたのだが、長くなりそうで、二枚目、説明できないよ。残念。

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