複雑性理論と人工知能技術(6) 言語能力はP?

別のポスト「文法を計算する1」で、次のように書いた。

「複雑性の理論では、計算可能なもっとも簡単なクラスを「多項式時間で計算可能: P」と呼ぶのだが、我々の言語能力は、明らかにクラスPに属するはずだ。だって、「多項式時間」どころではなく、リアルタイムに相手の話す言葉が文法にかなっているかを判断して聞き取り、リアルタイムに文法的に正しい文を生成してしゃべることができるのだから。」

もっとも、こうした議論は、そのままでは、理論的には「正しい」議論という訳ではない。

一つには、この議論は、リアルタイムに人間と同等の言語能力を示すシステムを構成しない限り、単なる予想であって、証明されたものではないからである。もう一つ、別の問題もある。それは、この議論は、言語能力のような人間の現実の諸能力を、数学的に定義された複雑性理論上のクラス(この場合はP)に、関連づけているからである。

後者の指摘の方が、より深い問題に根ざしているのだが、多少の飛躍をまじえて言うと、それについては、僕は、「人間の認識の形式的で数学的なモデルが構築可能である」と考えている。それは、形式としては数学的な表現を取りながら、物理学が、実在の運動法則の理論であることと同じである。物理学が、数学的形式をまとうことが必然であるように、認識の理論には、認識の理論の数学が必要なのである。

こうした認識論的な立場からは、言語の領域について言えば、その中核である「文法」の本質を「計算可能性」と捉える「計算主義的言語理論」は、僕には、魅力的である。そして、こうした立場が、「実際に、そうしたシステムは、作れていないじゃないか」という、先の前者の指摘に、実際にそうしたシステムを作り上げることで応えようとする試みをドライブすることになると考えている。

ところで、複雑性理論のコンテキストの中にいると(特に、degree of unsolvabilityの議論)、何かPが「簡単」な計算のクラスに見えてくることがあるのだが、現実的には、それは大きな錯覚である。

世の中の「正しく動く」コンピューター・プログラムは、全てクラスPに属するのだし、クラスPに属する問題の数を、簡単なものから数え上げることも、現実的には不可能なのである(これについては、あとで「いそがしいビーバー問題」というのを紹介する。)

「言語能力はPである」と確信することは、そうしたプログラムを作ろうとする情熱を強くサポートしてくれる。ただ、「言語能力はPである」という確信は、そのプログラムが具体的にどういうものになるのかについては、なんの情報も与えてくれないのだ。


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