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「人工知能」の「力」は誰のもの?

「人工知能」の「力」は誰のものかと考えることがある。 運動選手やアーティストの力は、素晴らしい。その力は、彼ら個人のものだ。 金足農業の吉田選手の力は、同じ秋田出身でも、運動音痴の僕とは無関係だ。僕が、いくらバンプの藤原(両親が秋田出身)が好きでも、親と同郷だからといって、僕の歌が上手くなるわけでもない。人間の感覚・運動能力は、個人に帰属する。 それでは、人間にはできない力を持つ機械、例えば重いものを押したり持ち上げるブルドーザーやクレーン、空を飛ぶ飛行機は、その力を自分のものだと思っているだろうか? もちろん、そんなことはない。これらの機械に「意識」はないのだから。 F1ドライバーは、自分の身体能力の「延長」として、自分のドライバーの力を感じているように思う。普通のドライバーも、スピードを楽しむ時、遠くに出かける時、我々は、我々の「力」が拡大していると感じているはずだ。 実際には、その「力」を可能にしているのは、機械の「力」なのだが。それは、無意識のうちには人間の「力」として意識される。(事故や故障で車が動かなくなったときに、我々の力でなかったことに気づく。)車のように、個人が所有できる機械の力は、個人のものである。 ただ、別の考えもある。フェラーリの車の力は、それを作ったフェラーリのものだし、iPhoneの力は、アップルのものでもある。技術的な製造物の力は、それを作った企業に帰属する。 北朝鮮のミサイルや核兵器の力は、金正恩の力である。(個人に戻っちゃった。)戦争する「力」は、たいていは、国家の能力である。 もっと面倒なものもある。電気・水道・ガスといった「社会的インフラ」の力だ。それが上手く機能しないと大変なことになるのを、最近、経験したばかりなのだが。 北海道の電気の力の「所有者」は、北海道電力なのかな? そうかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。 我々には身近な「インターネット」や「ネットワーク」についても、その力の淵源がどのあたりにあるのjか、また、その力は誰のものなのかを考えると、いろいろ面白い問題にぶつかる。 注意して欲しいのは、こうした議論に迷いこむのは、機械あるいは機械から構成されるシステムの「力」の概念が曖昧だというわけではないということだ。それらの「力」は、その「力」の欠如と対比すれば、誰

複雑性理論と人工知能技術(8) 中間まとめ

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「虫や魚には「理解」できないことがあるだろう」と多くの人は考える。ただ、人間にも「理解」できないことはある。 このことを、数学の世界で「数学的には、証明できない数学的命題がある」という形で、最初に定式化したのは、ゲーデルである。1930年代のはじめである。 我々の認識の可能性とその限界については、数学が一番鋭敏な感受性を持っていると思う。 「証明(計算)可能性」については、「計算可能というのは、帰納関数として定義されるものだと考えよう」というまとめがなされ、数学的には一段落する。これを、「チャーチ=チューリングのテーゼ」という。もっとも、この「テーゼ」自身は、まったく数学的命題ではないのだが。1950年代のことである。 一段落したといったが、もちろん、ゲーデルの不完全性定理は、「人間の認識の限界」について、山のような議論を巻き起こした。これらの有象無象の議論の中で、出色のものが一つあった。それは「機械は考えることができるか?」というチューリングの問題提起だったと僕は考えている。 数学的な命題であるゲーデルの定理を、いろいろ拡大解釈して人間の認識の限界と結びつけるのではなく、「機械だって、人間のように考えることができるんじゃないの?」と、機械の認識の可能性を対置したのだから。 この論文は、「人工知能」研究の扉を開くことになる。 残念ながら、こうした論点を深めることなく、チューリングは、世をはかなんで自殺してしまう。 「計算可能性理論」が、大きな転機を迎えるのは、1980年代に入ってからだ。 ファインマンが、コンピュータでは量子力学の法則に従う自然のシミュレートができないことに気づく。彼は、自然のシミュレートが可能なコンピュータは、量子力学の法則に従ったコンピュータでなければならないと主張する。 この指摘が、「量子コンピュータ」研究の始まりである。 数学的体系と同様に、自然もまた、我々の認識の対象である。数学だけでなく、物理学もまた、我々の認識の可能性と限界について、強い関心を持っているのだ。 ドイッチェは、ファインマンの考えを受けて、チューリングマシンの量子版を構成し、こうした量子チューリング・マシンで計算可能なものが計算可能であるとする。これを、計算可能性についての「チャーチ=チューリング=ドイッチェのテーゼ」という。

人工知能を科学する

今から約70年前、「機械は考えることができるか?」と問いかける論文がでました。今日の人工知能研究の出発点と言っていいチューリングの論文です。 この論文には、とても印象的な一節があります。 「「機械は考える事が出来るか?」という、最初に掲げた間題が、今では議論にも値しない程無意味なものである事は私も認めよう。... しかし、それにもかかわらず、今世紀の終わりには人々の意見が大きく変化して、ついには、矛盾していると考えることなく『機械の恩考』について語ることができるようになるであろうと私は信じている。」 チューリングの予想は、70年の時を超えて、見事に的中しました。今では、「人工知能」「AI」という言葉を、メディアで聴かない日はないと言っていいくらいです。「人工知能」の可能性を信じるものの一人として、僕は、こうした変化を歓迎しています。 ただ、僕は、皆が一斉に、「矛盾していると考えることなく『機械の恩考』について語」っていることに、少し、疑問を持ち始めています。 チューリングの予想は的中したのですが、「人々の意見が大きく変化する」その仕方は、かつてのチューリングの先見的で勇気ある深い問題提起に応えるものではないと感じています。メディアをみる限り、残念ながら、それは表面的で、ある場合には科学的でさえありません。 今回、「『人工知能』を科学する」というタイトルで、「人工知能」には、多様な科学的なアプローチがあることを伝えたいと考えています。 次の四つのコンテンツを提供しようと思います。 第一話 「人工知能と複雑性理論」 「昆虫や魚には、「理解」できないことあるだろうな」と考えるのは、自然なことです。ただ、同じことが人間にも言えると思いますか? 多分、人間にも認識できないことがあるのです。 「複雑性理論」は、人間の認識の限界を正確に境界付けようという数学理論です。興味深いことは、それは人間だけの限界ではなく、機械の認識の限界でもあるということです。その意味で、「複雑性理論」は、「人工知能論」の最も基礎的な土台を提供する理論だと、僕は考えています。 第二話 「人工知能と自然言語」 人間・機械の認識能力に、たとえ、限界があったとしても、他の動物たちとは明らかに異なる、優れた認識能力を人間は持っています。それは、言葉をもちいて、その力

電気、復旧

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稚内の自宅、深夜に電気が復活しました! (稚内でも、今朝の時点でもまだ復旧していないところあるようですが) 「完全復旧には一週間かかる」という発表を聞いて、脳裏に浮かんだのは、携帯電話での、かつての悲しい経験でした。「全国人口カバー率98%」というので喜んでいたら、稚内、2%に入っていました。 きっと今回も、最後に回されるのでは心配していました。停電一週間は、きつい。今回は、逆に、むしろ、小さいところから、少しづつ復旧していったのかもしれません。 あるいは、稚内には風車が沢山あって、稚内市は、「稚内の必要電力の120%は、風車でまかなえる」と言っていましたので、それが効いたのかもしれません。 https://goo.gl/WFsvHC ただ、今回の全道での停電の理由として挙げられていた、「需給バランスが、...」とか「周波数が ...」の意味がよくわかりませんでした。それが本当なら、復旧も相当に難しいはずです。 稚内には、あんなに風車があるのに、何百kmもはなれた発電所がダウンしたというので、稚内が停電する理由も、よくわかりませんでした。 コンピュータの世界には、大規模分散のシステム構築や、プログラミングの学習の場面で使われる Fail Fast という言葉があります。「早く失敗した方が、次に進むのに役に立つ」と言った意味です。今回のシステムダウンも、それだったのかもしれません。 ただ、Fail Fast, Fail Smart (早く、賢く失敗しなさい)という言葉もありますね。今回は、Fail Fastだったけど、Fail Smart ではなかったような気がします。 いろいろ、ご心配していただいて、ありがとうございます。 また、まだ停電中のみなさん、くれぐれもお気をつけてください。 山下 克司   系統停電と言って需要と供給のバランスが崩れた時に起こる自衛的な停電だと言われていますね。 1 管理する いいね!  ·  返信  ·  1日前  ·  編集済み 丸山 不二夫   家のブレーカーが、電気を使い過ぎると、切れるみたいなことですね。 1