小林多喜二、または、僕の祖母のこと
僕の母の旧姓は小林である。母の父は、小林多喜二の又従兄弟(マタイトコ)だった。わかりやすく言うと、僕の祖父の祖父と多喜二の祖父は兄弟だった。(わかるかな?) 祖父は、僕が小学校に入る前になくなったので、多喜二のことを祖父から聞いたことはない。幼稚園児が、ジイちゃんに、「多喜二の思想、どう思う?」と聞く場面を想像したのだが、それは、かなりシュールなものだ。僕も、未熟だった。優しいジイちゃんだったなぐらいの記憶しかない。 遠いとはいえ、僕と多喜二に少し血縁関係があることを知ったのは、大学生になってからだと思う。僕の子供時代には、そのことを自慢するような雰囲気は、田舎には、まだなかったのかもしれない。 ただ、みじかなところに、多喜二を知っている人がいた。母の母、僕のばあちゃんである。彼女は、多喜二と同級生で同じクラスだったと言う。 「多喜二? いたよ。私の方が勉強できた。」 成績うんぬんの話は、本当かどうかわからないが、同い年で同じクラスだったことは確かなようだ。 僕の祖母は、なかなか強烈な人で、戦後の混乱期に、女手ひとつで一代で財を成した。「女手ひとつ」と書いたが、祖父が亡くなったわけではない。おとなしい祖父は、だまって彼女について行った。(そういえば、僕も、働かないで、長いこと彼女に食わしてもらっていたな。「ヒモ」遺伝子?) と書くと、利発な女の子が、秀才タイプではなくイケメンのスポーツマンを選んで、自分が立ち上げたビジネスでも成功しました。めでたし、メデタシの成功ストーリーのように見えるが、本当は、そんなに単純ではない。 多喜二が遠縁だと言うことを聞いてから、彼女に、同じクラスにいた多喜二くんのことを、色々聞こうとも思ったのだが、あまり、学校時代のこと話すの好きそうじゃなかった。彼女から得られた情報は、「私の方が、多喜二より勉強できた」ということだけだった。そのうち、多喜二のこと彼女に聞くのを、やめることにした。 後になって気づいたことがある。彼女は、ほとんど学校に行っていないのだ。ちなみに、僕のジイさんが得意だった「スポーツ」は「相撲」だった。サッカーでも野球でもテニスでもない。舞台は、現代の中学校でも高校ではなく、明治時代の東北の片田舎の「尋常小学校」である。「おしん」の時代だ。僕のばあちゃんは、ローカルなミニおしんみたいな