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量子コンピュータ関連の取り組みのご報告

---------------------------- 6月22日開催 マルレク第二回「量子コンピューティングの現状と課題」のマルレク・ネットでの動画配信が始まりました。 ---------------------------- 動画のURLは、次の通りです。 https://crash.academy/class/297 概論の部分は、無料で視聴できます。 このセミナーに関連した資料です。 ・講演資料: https://goo.gl/wgTmPV ・翻訳:Preskill「NISQ時代とそれ以降の量子コンピューティングについて」 https://goo.gl/6qh1oE ・セミナー概要: https://quantum0626.peatix.com/ ご利用ください。 ---------------------------- 本日、8月19日、台風の影響で延期した、「紙と鉛筆で学ぶ量子情報理論基礎演習 I」が、無事に開催できました。 ---------------------------- 写真は、「固有ベクトルというのは、行列の作用を受けても、向きが変わらないベクトルのこと」と、腕を振り回したところ。(下を向いちゃった。) この「紙と鉛筆」のシリーズは、9月以降も受講者の増大を目指して(できれば年内延べ200人くらいまで行ければいいのですが)、リピート開催したいと思っています。(「基礎」がわからないと、次の話ができないのです。) 10月の第四回マルレクのテーマは、「拡大する量子アルゴリズム」しようと思っています。 ---------------------------- 来週開催の第三回マルレクのテーマは、「自然言語とコンピュータ概論 -- 計算主義的言語理論入門」です。明日、8月20日12:00から、一般の受付が始まります。 https://language1.peatix.com/ 申し込み、お待ちしています。 ----------------------------

「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」

「「歎異抄」に伝えられる親鸞の有名な言葉だ。 去年、母の一周忌の法要のお経(かな?)の中で、この言葉が耳に入り「あれ?」と思う。というのは、うちは法然の浄土宗で、親鸞の浄土真宗ではないからだ。 不思議と思って調べてみると、この言葉は、親鸞オリジナルなものではなく、もともとは、法然の言葉だったらしい。「浄土宗全書検索システム」(!)でみると、「法然上人伝記」にこの言葉が確かにある。https://goo.gl/u8jFbx  先日、母の三周忌で、会食した住職に聞いて見た。僕と住職だけがタバコをすうので、会食の場所から追い出された二人の喫煙所での立ち話。 大正年間に発見された「法然上人伝記」の信ぴょう性には、いろいろ議論はあったのだが、現在では、浄土宗の法話で、この言葉を使うことは認められているとのこと。それについては、いつだったか(住職は日付を言ったのだが、僕は忘れてしまった)、浄土宗と浄土真宗の教学のトップが正式に会って、話はつけてあると。(もちっと、上品な言い方だったが) 「法然上人伝記」は、この教えは「口伝」だとして、後半では、間違った理解をしないようにと念を押している。親鸞は、法然の高弟だったので、師から「口伝」を受けたのだろう。大事な教えなのに、口伝でしか伝えられず、一般に広がることをさける。そういえば、蓮如は「歎異抄」を禁書にしたんだった。 同じような話が「カラマゾフの兄弟」の中にある。 魔女狩りの時代に、この世に再臨したキリストを、キリスト教会トップの「大審問官」が、彼をキリストと知りながら、捕まえて牢獄に放り込んで、民衆との接触を断つという話だ。「大審問官」は、おまえが今頃現れてもだれにもいいことはないと、さんざんキリスト(本人だ!)とその教えを罵倒するのだが .... 。 宗教もラジカルだが、芸術もラジカルだったんだな。

複雑性についてのリンク集

Facebookで「複雑性理論と人工知能技術」という投稿を連続しているのですが(まだ、少し続きます)、自分でも探しにくくなっているので、丸山のblogにエントリーを転載して、そのリンクを集めて見ました。あわせて、関連する2017年1月の「複雑さについて」というエントリーのリンクもまとめて見ました。 このまとめ自体のパーマリンクは https://goo.gl/Uv5jgU です。多分、更新していくと思います。ご利用ください。 複雑性理論と人工知能技術 (2018年 8月のエントリー)  複雑性理論と人工知能技術(1) はじめに    https://goo.gl/HDDWyK 複雑性理論と人工知能技術(2) ゲーデル=チャーチ=チューリング   https://goo.gl/MjEiwh 複雑性理論と人工知能技術(3) ナッシュとゲーデル   https://goo.gl/JJBTEK 複雑性理論と人工知能技術(4) ファインマン  https://goo.gl/9iPr7W 複雑性理論と人工知能技術(5) ドイッチェ   https://goo.gl/K7RHNA 複雑性理論と人工知能技術 (2018年 9月のエントリー)  複雑性理論と人工知能技術(6) 言語能力はP?  https://goo.gl/HmwmyP 複雑性理論と人工知能技術(7) 数学とNP問題  https://goo.gl/onbXAn   複雑性理論と人工知能技術(8) 中間まとめ   https://goo.gl/UoTLDn 複雑さについて (2017年 1月のエントリー) 複雑さについて(1) AI「フレーム問題」   https://goo.gl/zZQWsA 複雑さについて(2) Compositionality    https://goo.gl/HDWwF7 複雑さについて(3) コルモゴロフの複雑性   https://goo.gl/GVUv9d 複雑さについて(4) チャイティンの不完全性定理  https://goo.gl/ZKEbhy 複雑さについて(5) チャイティンとゲーデル       https://goo.gl/6XfYgF 複雑さについて(6) 複雑さと計算量の理論    https://goo.gl/

複雑性理論と人工知能技術(5) ドイッチェ

ファインマンの「量子コンピュータによる自然のシミュレーション」という刺激的な問題提起を受け、それを「計算可能性理論」の中心的な原理である「チャーチ=チューリングのテーゼ」との関連で整理しなおして「計算可能性」を再定式化したのは、ドイッチェである。 1985年の論文 "Quantum theory, the Church-Turing principle and the universal quantum computer" https://goo.gl/PVHGKa  で、ドイッチェは、「チューリング・マシンのクラスの量子論的一般化である計算機械のクラス」=「万能量子コンピュータ」を構成して見せる。 彼は、「チャーチ=チューリングのテーゼ」を次のように捉える。 『「計算可能と自然に見なされる関数」は、全て、万能テューリング・マシンで計算可能である。.』 ただ、彼は、この「チャーチ=チューリングのテーゼ」の基礎には、暗黙の物理学的主張がある」という。これが、この論文の眼目である。 彼は、彼が構成して見せた「万能量子チューリング・マシン」=「万能計算機械」を用いて、「チャーチ=チューリングのテーゼ」を書き換える。 「この物理学的主張は、次のような物理学的原理として、明確に表現することが出来る。」 『有限な方法で実現可能な物理システムは、有限な手段によって操作される万能計算機械のモデルで完全にシミュレート可能である。』 これを、「チャーチ=チューリング=ドイッチェのテーゼ」という。 ドイッチェは、論文で、これらの原理が、次の熱力学の第三法則に似ていること注意を向けているのは、興味ふかい。 『どのような有限のプロセスも、有限な手段実現可能な物理システムのエントロピーあるいは温度をゼロにはできない。』 形式的・数学的で抽象的な「計算可能性」の原理だった「チャーチ=チューリングのテーゼ」は、ここに「チャーチ=チューリング=ドイッチェのテーゼ」として、実在的な過程としての「計算」の原理として「物理化」されることになる。 「計算可能性」の原理の「物理化」は、関連する諸科学に、一つのインパクトをもたらすことになる。なぜなら、それは、それまで別々の学問の対象だった「計算過程」「物理過程」「情報過程」(それぞれ、数学・物

複雑性理論と人工知能技術(4) ファインマン

「計算可能性」の理論として出発した「複雑性理論」が、質的な深化を果たすのは、1980年代になってからである。 大きな転回点になったのは、1982年のファインマンの論文 "Simulating Physics with Computers" https://goo.gl/ueVbdp  である。 この論文は、複雑性理論の進化の重要な画期を与えるとともに、現在の量子コンピュータのアイデアの出発点ともなる重要な論文である。(同時に、現在の量子コンピュータ技術の到達点は、ある意味、この論文への「回帰」として特徴付けられるのは、興味ふかいことである。) ファインマンは、次のように述べる。 「コンピューターが、正確に自然と同じように振る舞う、正確なシミュレーションが存在する可能性について話そうと思う。 」 「それが証明されて、そのコンピュータのタイプが先に説明したようなものであるなら、必然的に、有限の大きさの時空の中で起きる全てのものは、有限な数の論理的な操作で正確に分析可能でなければならないことになるだろう。」 「量子論的なシステムは、古典的な万能計算機で、確率論的にシミュレートされるだろうか?」 「 別の言い方をすれば、コンピューターは、量子論的なシステムが行うのと、同じ確率を与えるだろうか? コンピューターを今まで述べてきたような古典的なものだとすれば(前節で述べたような量子論的なものではないとすれば)、また法則はすべて変更されないままで、ごまかしもないとすれば、答えは明らかにノーである。」 「それは、新しいタイプのコンピューター、量子コンピューターで可能になるだろう。」 「 私が理解する限りでは、それは量子論的なシステムによって、量子コンピューターの要素によって、シミュレート出来るようになることは、いまや、明らかになった。それはチューリング・マシンではない。別のタイプのマシンである。」

安藤昌益

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安藤昌益は、秋田の大館で生まれ大館で死んだ江戸中期の思想家である。世界史的には、カントより20年ぐらい先の人。 彼女の母の七回忌で訪れた、彼女の実家近くの二井田温泉寺に彼の墓がある。ちなみに、安藤昌益を再発見した、狩野亨吉の生家は、僕の実家のすぐ近くにある。 狩野亨吉は、34歳の若さで一高の校長となる。夏目漱石の友人で、『吾輩は猫である』に登場する「苦沙弥先生」のモデルと言われている。 安藤昌益と狩野亨吉は、(ついでにいえば、僕も)同郷なのである。 安藤昌益は、封建的な身分制度とその思想的主柱だった儒教道徳を否定した、近世日本がうんだ稀有な革命思想家である。 中平土の人倫は十穀盛りに耕し出し、山里の人倫は薪材を取りて之を平土に出し、海浜の人倫は諸魚を取りて之を平土に出し、薪材十穀諸魚之を易へて山里にも薪材十穀諸魚之を食し之を家作し、海浜の人倫も家作り穀食し魚菜し、平土の人も相同うして平土に過余も無く、海浜に過不足無く、彼(かしこ)に富も無く此に貧も無く、此に上も無く彼に下も無く…上無ければ下を攻め取る奢欲も無く、下無ければ上に諂ひ巧むことも無し、故に恨み争ふこと無し、故に乱軍の出ることも無き也。上無ければ法を立て下を刑罰することも無く、下無ければ上の法を犯して上の刑を受くるといふ患いも無く、…五常五倫四民等の利己の教無ければ、聖賢愚不肖の隔も無く、下民の慮外を刑(とが)めて其の頭を叩く士(さむらい)無く、考不孝の教無ければ父母に諂ひ親を悪み親を殺す者も無し 「上がなければ下もない」「下がなければ上もない」という考えは、ヘーゲルの「主人と奴隷」の弁証法と同じものだ。目指すのは、ジョン・レノンの「イマジン」の世界に近いものだ。 安藤昌益以外にも、江戸後期の「国学者」の平田篤胤、佐藤信淵も秋田の出身である。明治期の著名な東洋学者内藤湖南も隣町出身である。 彼らの学者としての波乱万丈の人生を振り返ると(といっても、Wikipedia程度の知識しか僕にはないのだが)、現在のアカデミアのキャリアパスは全く異なるものであることがわかる。 逆に言えば、確固に見えるかもしれない現在のアカデミアのヒエラルキーも、たかだか100年少しの歴史しか持っていないのだと思う。それは、グローバルに見ても同じことだ。 た

ポッチャン便所

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義母の七回忌とお盆を迎えるので、彼女の実家の掃除に駆り出されているのだが、いつもより仕事が増えているのには訳がある。 この家のたたずまい、古民家然として、嫌いではないのだが、ひとつ困ったことがあった。便所が、汲み取り式のいわゆる「ポッチャン便所」なのである。(若い人には、分からないかもしれないが。一度、使ってみれば、なぜ、「ポッチャン」なのかは、すぐ、分かるはず。) 今年、お盆の直前まで、この便所を水洗トイレに改装する工事がはいっていて、家の中が、いつもよりちらかっていたのだ。 お盆と七回忌は当然として、「ポッチャン便所」撲滅は、それ以上の「大義」だったなと、工事が一段落した今思う。かり出されて当然なのかも。 古民家が好きな人は、「ポッチャン便所」も好きなのかしら?それでもいいのだが。 古い日本の家は、何も置かない、何もものがない時に、一番すっきり綺麗に見える。 でも、茶室で暮らせといわれたら、僕は、本も持たず、寝るスペースがあれば、寝ながら仕事すればいいので、全然困らないのだが、WiFiルータとMacとAndroidは持ち込むだろうな。 あと、やはり、隣にトイレが欲しい。