「善人なおもて往生をとぐ、いわんや悪人をや」

「「歎異抄」に伝えられる親鸞の有名な言葉だ。

去年、母の一周忌の法要のお経(かな?)の中で、この言葉が耳に入り「あれ?」と思う。というのは、うちは法然の浄土宗で、親鸞の浄土真宗ではないからだ。

不思議と思って調べてみると、この言葉は、親鸞オリジナルなものではなく、もともとは、法然の言葉だったらしい。「浄土宗全書検索システム」(!)でみると、「法然上人伝記」にこの言葉が確かにある。https://goo.gl/u8jFbx 

先日、母の三周忌で、会食した住職に聞いて見た。僕と住職だけがタバコをすうので、会食の場所から追い出された二人の喫煙所での立ち話。

大正年間に発見された「法然上人伝記」の信ぴょう性には、いろいろ議論はあったのだが、現在では、浄土宗の法話で、この言葉を使うことは認められているとのこと。それについては、いつだったか(住職は日付を言ったのだが、僕は忘れてしまった)、浄土宗と浄土真宗の教学のトップが正式に会って、話はつけてあると。(もちっと、上品な言い方だったが)

「法然上人伝記」は、この教えは「口伝」だとして、後半では、間違った理解をしないようにと念を押している。親鸞は、法然の高弟だったので、師から「口伝」を受けたのだろう。大事な教えなのに、口伝でしか伝えられず、一般に広がることをさける。そういえば、蓮如は「歎異抄」を禁書にしたんだった。

同じような話が「カラマゾフの兄弟」の中にある。

魔女狩りの時代に、この世に再臨したキリストを、キリスト教会トップの「大審問官」が、彼をキリストと知りながら、捕まえて牢獄に放り込んで、民衆との接触を断つという話だ。「大審問官」は、おまえが今頃現れてもだれにもいいことはないと、さんざんキリスト(本人だ!)とその教えを罵倒するのだが .... 。

宗教もラジカルだが、芸術もラジカルだったんだな。

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