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意味の形式的理論 -- Fibration

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ところで、先のポストで見た二つの図式と同じような構造を持つ数学的対象が存在するのだ。 次の図を見て欲しい。二つの集合EとBとが、二つの関数 pとs とで結ばれている。 集合Eの各点は、集合B上の一点xと、pで結ばれている。この時、pをB上のFibrationという。逆に、関数sが、xをE上の点 s(x)に写す時、sをpのsection(切片と思えばいい)と呼ぶ。

意味の形式的理論 -- 素朴な対応理論2

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空海は、言葉と実在の間には、本源的なつながりが、そもそも備わっていると考える。「ア・ウンの呼吸」の「阿(ア)吽(ウン)」は、梵語のアルファベットの最初と最後の文字だが、それは、そのまま、全てのものの「本初」と「究極」の象徴となる。 「真言」の「マントラ」を唱えることで、宇宙の法則と同一化し、その力を自分のものにできる。壮大なストーリーだが、ある種の「言霊信仰」と言っていい。ただ、そう斬って捨てるには、宗教とそれを伝える言葉との関係は、現在でも複雑なものだ。 言葉と実在を、いったんは切り離し、人間の言語能力がそれを結びつけるという言語観は、人間の歴史から見ると、比較的新しいものだ。明らかなことは、宗教の起源と人間の言語能力の獲得は同時に起きただろうということ。 話を戻そう。 先に、言葉とものとを、「名付け」と「参照」という二重の仕方で結びつけた。ただ、こうした二項を密に結びつける素朴で単純な図式では、表現されないものが存在する。 一つは、言葉とものとの関係の「恣意性」であり、もう一つは、具体的には異なる複数のものが、「同一」の名前を持つことである。 ただ、この二つを、新しい図式で表現することは出来る。 図1は、様々な言語で、同じものが異なる名前を持つことを表現し、図2は、具体的には異なるものが、同一の名前を持つことを表現している。 いずれでも、緑の矢印は「名付け」を、青の矢印は「参照」を表している。 奇妙なことだが、両者は、同じ構造を持つ、双対な図式で表現される。今度は、その形式化を考えよう。

意味の形式的理論 -- 素朴な対応理論1

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オグデンとリチャードの「意味の三角形」の要点の一つは、三角形の底辺部分が欠けていることなのだが、これは、一つには「シンボル」とシンボルが表現する「被参照物」が、直接の関係を持たないことを表している。それは、ソシュールがいう「記号の恣意性」というのと、同じことである。 底辺の欠落には、もう一つの理由がある。底辺の左側の「シンボル」は思考の内側にのみ存在し、底辺の右側の「被参照物」は基本的には思考の外側のみに存在する。底辺の二項は、存在のあり方が異なっている。(ここでは、思考の内部の「被参照物」を直接には考察の対象とはしない。その意味では、素朴な対応理論である。) 底辺の二項を結びつけているのは、人間の言語能力・思考の作用である。こうした能力の存在を仮定すれば、底辺の二項はつながりを持つ。 この三角形の辺を動かして、一直線上に並べてみれば、「シンボル」とそれが表現する「被参照物」とは、二つの仕方で結びついていることがわかる。 一つは、思考の内側のシンボルが、思考の外部に存在するあるものを参照するという関係(図1右上の青い矢印)であり、もう一つは、思考の外部のあるものを思考の内部にシンボルとして取り込む(図1右下の緑の矢印)ことである。後者の、もっともプリミティブな言語化の例は、ものに名前を与えることである。(シンボル=名前=語) 図2は、我々の思考の内側の「語の世界」と、我々の思考の外部の「現実の世界」が、「名付け」と「参照」という逆方向の対応で結びつく様子を示している。

意味の形式的理論 -- 空海の言語論 「声字実相義」

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「声字実相義」は、今からちょうど1,200年前の819年頃に書かれた、空海による、「声」と「字」と「実相」の関係を論じた、言語論である。 「内外の風気わづかに発すれば必ず響くを名づけて声という。響きは必ず声による。声はすなわち響の本なり。声発して虚からず、必ず物の名を表するを号して字という。名は必ず体を招く。これを実相と名づく。」 それは、「口から出ることば(声)」と「物の名(字)」と「実体(実相)」の関係を論じたものだ。 こうした要約は、不正確かも知れない。空海は、「真言宗」の祖である。「真言」とは文字通り「正しい言語」のことで、彼の宗教の根幹には、言葉の力に対する深い確信がある。 この書を、「言語論」とくくるのも、どうかなと思う。それは生命論でもあり、人間論でもあり、環境論でもあり、宇宙論でもある。言語を中心に置いた、壮大な自然哲学でもある。 次の北尾克三郎氏の「現代語訳」が、ネットで利用できる。 https://goo.gl/VXViKL 空海の言語論-『声字実相義』<現代語訳> 目 次 Ⅰ 理念<いのちと自然の声を聞くための「言語」> Ⅱ 基礎理論<言語の構造>   (イ)論題:「声」と「字」と「実相」との関係性とは   (ロ)論題の梵語<複合語解釈法>による論証   (ハ)言語論の典拠 Ⅲ 本論<物質といのちの"はたらき"と"すがた"を分析する言語>   (イ)言語の定義   (ロ)定義の展開   第一の定義<物質のひびきとしての言語>   第二の定義<住む世界と呼応する言語>   第三の定義<形象を区別・編集する言語>   (A)形象の定義   (B)定義の展開   1「物質と現象」のすがた   2「いのちとその環境」のすがた   3「共生の事象」のすがた   4「心象」の本質 もちろん、空海の言語論が、現代にもそのまま妥当するわけではないのは明らかだ。ただ、1,200年前、こうした広い視野を持つ天才が日本に生まれたことは、特筆に値するとおもう。 北尾氏の訳は、いわゆる「超訳」に近いものだとおもう。ただ、空海の思想を現代的に捉え返そうとい

AIの遠い未来 「12のシナリオ」by Tegmark

Tegmarkの"Life 3.0"をザッピングして、少し嫌になる。Huluで「パーソン・オブ・インタレスト」の残りを見た方がよかったかも。 今世紀中に、大きなAI技術の飛躍が起きるというところは、同意。また、自分は、"Digital Utopian"ではなく、著者と同じく、現時点では、"Beneficial AI Movement"の立場に立つことでも同意。 ただ、その先が良くない。 "CHAPTER 5 Aftermath: The Next 10,000 Years" 10個以上の、Next 10,000 yearsのシナリオが示されている。 そんな先まで、議論しようというのがおかしい。もちろん、何を想像するのも何を問題提起するのも自由なのだが。ただ、SF作家の想像力の方が、よほど魅力的かもしれない。 こんな未来像を煽っていたら、現実的には、4番の「人間Gatekeeper」版が、今のうちに必要だということに落ち着くだけだと思う。 最初の三つは、現在の社会・経済思想を、一万年後に投影したものでしかない。縄文人に、「オープンソース」や「ビット・コイン」を想像させるのは、難しい。 神についてのシナリオでは、歴史的には機械の「創造主」は人間に他ならないのだから、「機械の神に人間がなる」(きっと偶像は、ビル・ゲイツかスティーブ・ジョブスになるのかも)というシナリオがないのが残念。(Descendants の派生系だが) 個人的には、もちろん、想像の世界での話だが、8番のDescendants が好き。ただ、きわめて現実的には、12番のSelf-destruction が、一番ありそうなシナリオに思えるのが悲しい。 彼があげている、12のシナリオを訳して見た。 ------------------------ 1. Libertarian utopia (リバタリアンのユートピア) 人間、サイボーグ、アップロード、スーパー・インテリジェントAIは、財産権を保証することで平和的に共存する。 2. Benevolent dictator (情深い独裁者) AIが社会を運営する上で厳格なルールを強制することは誰もが知っている。ほとんどの人間はこれ

Voevodsky と証明支援システム UniMath

先ごろ亡くなったVoevodsky(僕は「ヴォヴォスキー」と呼んでいたのだが、いい加減かもしれない)の仕事の一端を紹介しようと思う。 彼は、Milner予想、Bloch-Kato予想を解くなど、代数幾何でグロタンディックが進もうとした道で、大きな業績を残した。ヴォヴォスキーの最後の仕事は、数学の基礎とコンピュータに関係していた。 彼は、数学の証明に、コンピュータを使うべきだと主張した最初の数学者の一人で、また、そのためのコンピュータによる証明支援システムのライブラリーUniMthを開発した。 GitHub:  https://github.com/UniMath/UniMath 2016年9月の講演 "UniMath - a library of mathematics formalized in the univalent style"  https://goo.gl/3sJr1M 数学でのコンピュータの利用は、人工知能研究の重要な一分野だ。それは、ディープ・ラーニングや自然言語処理や検索技術とは、全く異なる技術が必要になる。 なぜ、数学の証明にコンピュータが必要なのか? かいつまんでいうと、こういうことだ。 フェルマーの定理を証明したワイルズが、謙遜して自分は「巨人の肩の上の小人だ」と言ったように、数学は、先行した無数の人たちの業績の蓄積の上に成り立っている。 もしも、ピタゴラスの子孫が生きていたとしても、ピタゴラスの定理を使うのに、彼らに著作権料を払う必要はない。また、その「証明」を自分で繰り返す必要はない。 ピタゴラスの「教団」は、いくつかの発見を「秘教」にしていたらしいのだが、少なくとも現代の数学では、情報の共有は、学問自体の前提でさえある。 ヴォヴォスキーは、興味ふかい経験をする。 2000年頃、彼は1993年に自分が発表した論文の重要な補題が間違っていたことに気づく。でも、その頃には、その論文は広く出回っていて、多くの数学者がその証明を「信じて」いた。彼が、その間違った補題なしでも、論文の結論が正しいことを証明できたのは、2006年になってからだった。 別のこともあった。1998年に共著で彼が発表した論文の証明に対して、「正しくない」という批判が出される。結論的には、彼は、正しかっ

「型の理論」と証明支援システム

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「ギョエテとは、俺のことかとゲーテいい」 「Voevodsky(僕は「ヴォヴォスキー」と呼んでいたのだが、いい加減かもしれない)」と書いたのだが、やはり、いい加減だったかも。 ウィキを見たら「ヴォエヴォドスキー」と書いてある。英文wikiには、/vɔɪˈvɒdski/ と発音記号が出ている。(ちゃんと調べろよ) 字面を見たら wiki が正しそうだ。でも、ビデオを見ていると、僕には、そう聞こえたのだが。「ヴォ[イ]ヴォ[ド]スキー」。ま、許してください。今、発音、練習中です。 数学の証明にコンピュータを使おうという彼のアイデアを、以前(2013年)、マルレクで取り上げたことがある。「「型の理論」と証明支援システム -- Coqの世界」 https://goo.gl/S6u41w 話せば長い話なので、今回は、まず、そのマルレクの「はじめに」の部分を紹介する。 ----------------------- 現在、HoTT(Homotopy Type Theory)と呼ばれる新しい型の理論とそれを基礎付けるUnivalent Theoryと呼ばれる新しい数学理論が、熱い関心を集めている。 Univalent Theoryは、数学者のVladimir Voevodskyが、論理学者Per Martin-Löfの型の理論を「再発見」したことに始まる。 この新しい分野は、21世紀の数学とコンピュータサイエンスの双方に、大きな影響を与えていくだろう。 「証明支援システム」は、人間の証明をコンピュータが支援するシステムである。ただ見方を変えれば、それは、コンピュータの証明を人間が支援しているシステムだと考えることも出来る。 コンピュータの進化が進んでいる方向の先には知性を持つ機械の実現があると筆者は考えている。「証明支援システム」での人間と機械の、証明をめぐる双対的な「共生」は、それに至る一つの段階なのだと思う。 小論は、HoTTを直接の対象とはしていない。 HoTTにいたる型の理論のオーバービューを与え、Martin-Löfの型の理論に基づいた証明支援システムCoqの初等的な紹介を行うことを目的にしている。 おりしも、Coqは、今年2013年に、ACMのSIGPLANのProgramming Languages So

朽ち果てるものとサルのタイプライタ

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アマゾンの密林に新車のBMWを置き、500年もすれば、鉄の塊になる。さらに500年放置すれば、鉄サビの山ができるだろう。鉄の形は、時間とともに変わるのだが、いくら待っても、それが元の新車のBMWに戻ることはない。 逆の考え方もある。 チンパンジーにタイプライターを叩かせる。ずっとやっていれば、"monkey"という単語を打ち出す可能性はある。もっともっとやり続ければ、シェクスピアの作品を打ち出す可能性だってあるはずだ。 写真は、「人々から置き去りにされ、さび付き朽ち果てた戦車や戦闘機などの写真集」から。こういうの好きな人がいるようだ。 http://gigazine.net/news/20110526_remains_of_war/ 「猿のタイピスト」については、日本語wikiの「無限の猿定理」 https://goo.gl/3iM9V9  が、素晴らしいまとめになっている。是非、読んでほしい。僕は、ボルヘスの「完全な図書館」の話をしようと思っていたのだが、完全に負けた。特に、古代ギリシャの原子論に対する批判として、この議論が、すでにあったことは知らなかった。 どっちの見方が正しいのか? 実は、この矛盾する見方が、交わるところこそ、熱力学的なエントロピーと情報論的なエントロピーが交わるところになる。 9/28 マルレク「IT技術者のための情報理論入門 -- エントロピーと複雑さについて」 https://goo.gl/DceUbG こんなのもやります。 9/12 「アマゾン“Echo & Alexa”上陸直前! Aiボイス・アシスタント3時間集中講座」 https://goo.gl/UedvRf

ボルツマンと原子論

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以前の僕の投稿から。 https://goo.gl/uERvY9   ---------------------------------------  「ボルツマン・マシン」のことを書いたが、「マシン」に人の名前がつくのは、僕は他には、「チューリング・マシン」しか知らない。 19世紀のボルツマンと20世紀のチューリングには、これ以外にも共通点がある。(二人とも、傑出した天才であるという自明のことを除いて)それは、二人とも自殺していることである。 のちに「XXX マシン」と呼ばれる業績を残すかもしれない、まだ見ぬ21世紀のXXXが、そうならないことを祈ろう。 ---------------------------------------     昨日紹介したサスキンドの発言は「悪い冗談」なのだが、ボルツマンの業績は、彼の生前には正当に評価されなかった。特に、当時の物理学会で大きな発言力を持っていたマッハとその取り巻きは、執拗にボルツマンの「原子論」を攻撃した。ボルツマンは、追い詰められ、次第に精神を病んでゆく。 古代ギリシャで原子論を提唱したデモクリトスの著作を、プラトンは、全部、焼かせたという。19世紀の物理学でも、「原子論」は「異端」の学説だったらしい。(日本でいえば、江戸時代にボルツマンは生まれ、明治維新の頃に論文を書いていると思っていい。) 写真は、Scott Aaronsonの本 "Quantum Computing Since Democritus" 「デモクリトス以来の量子コンピューティング」の表紙を飾るデモクリトス。 19世紀の物理学者の双璧は、ボルツマンとマックスウェルだと思うが、二人のアカデミーでの人生は、はっきりと明暗を分けている。 物理現象を、より基本的な要素の実在とその運動で説明しようというのは、現代物理学の基本的な態度である。ボルツマンらがその基礎を築いた統計力学の手法は、20世紀の量子力学を準備する。素粒子論というのは、現代の原子論に他ならない。 ただ、原子論が、科学の世界で広いコンセンサスを得るのは(化学の世界では、原子論は、早くから受け入れられていたようなのだが)、1905年の、アインシュタインの「ブラウン運動」についての論文以降だったという。 ボルツマンも、この20代の若者の論

Scott Aaronsonの嘆き

先週のScott Aaronsonのblog "Higher-level causation exists (but I wish it didn’t) 「 高次の因果性は存在する(ただ、私は、そうでなかったことを望む)」”が興味深く、すこし悲しかった。 http://www.scottaaronson.com/blog/?p=3294 議論好きで議論に強いAaronsonが、珍しく自説を撤回して、立場を変えている。 論争の舞台は、「因果性」をめぐる、"Reductionism「還元主義」"と"Emergence「創発主義」"。単純化して言えば、「還元主義」は、全体はその部分に還元できると考えるのに対して、「創発主義」は、全体は部分に還元できず、全体には、新しい何かが立ち現れる(Emergence)と考える。 「鼻がかゆい。だから、鼻を掻いた。」のレベルでの「因果性」を、鼻を構成する量子の状態に還元する必要はないのは明らかだ。 画像の認識でも、重要なのは、全ての画素の持つ情報の総和ではなく、「巨視化」して得られるcoarse-grainedな情報である。 ミクロなシステムを「巨視化」してマクロなシステムとして捉える時、ミクロな情報の多くは失われ、新しい質が立ち現れる。それがエントロピーだ。 Aaronsonが、そういうことを知らないわけがない。 Aaronsonは、創発主義に基いて、人間の意識の数学的理論を構築しようとする「統合情報理論 Integrated Information Theory (IIT) 」の鋭い批判者だった。例えば、"Why I Am Not An Integrated Information Theorist (or, The Unconscious Expander)" http://www.scottaaronson.com/blog/?p=1799 彼の批判は、「還元」を更に推し進めようというものではなく、「統合情報理論」の無内容さに向けられたものだったように思う。このあたりの議論は、人工知能 とも深い結び付きがある。 ただ、ここでは、こうした議論に立ち入ることはやめて、なぜ、Aaronsonが見解を変えたかを見ておこうと思う。

「言葉の力」と「数理の力」 (1)

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「知能」や「認識」とは何かということが、僕の一つの関心なのだけれど、最近、よく「言葉の力」と「数理の力」について考えている。 「言葉の力」とは、言語が我々に与えた世界を認識する力のことで、「数理の力」というのは、数学や物理学が我々に与えた世界を認識する力のことである。(もっとも、「感覚の力」というのも重要だし、我々の世界に対する関係は「認識」だけであるとは限らない。ただ、そうした論点は、当面、留保しよう。) 10数万年前、おそらく突然に、「言葉の力」が、Homo属の一部に芽生える。それが、人間である。我々は皆、特殊能力を持ったそのミュータントの子孫なのである。その時から、人間と世界の関係は、劇的に変化する。人間は、その能力ゆえに、世界に対して、類人猿を含めた他の動物とは異なる振る舞いをするようになる。 自分の経験や考えを、仲間同士で伝えられるようになる、それは、近くにいた人間以外のHomo属にも、不思議な「テレパシー」能力に見えたことだろう。感情は豊かになる。同胞の死を悲しみ、死体を埋葬し、てあつくとむらう。直接的な「恐怖」ではなく、満天の星空を見上げて「畏怖」を感じる。自分自身の存在を含めて、世界は「謎」に満ちたものとして現れる。 生まれたばかりの人間は、その「謎」を「言葉の力」を使って説明しようとする。 宗教と芸術と科学は、そのプリミティブな形では、未分化で渾然一体の形ではあるが、言語能力の獲得と同時に生まれた。言語・宗教・芸術・科学の存在は、人間と動物を、決定的に分かつものだ。 -------------------------------------------------- 以下、Facebook上での議論です -------------------------------------------------- 中村 新一   人間だけが特別だと言うのは、果たして本当なのだろうか?(^^; いいね!  ·  返信  ·  1  ·  1時間前 Yoshiki Ashida   鋭い ❗ 座布団10枚 いいね!  ·  返信  ·  1  ·  1時間前  ·  編集済み 返信する…