意味の形式的理論 -- 素朴な対応理論2
空海は、言葉と実在の間には、本源的なつながりが、そもそも備わっていると考える。「ア・ウンの呼吸」の「阿(ア)吽(ウン)」は、梵語のアルファベットの最初と最後の文字だが、それは、そのまま、全てのものの「本初」と「究極」の象徴となる。
「真言」の「マントラ」を唱えることで、宇宙の法則と同一化し、その力を自分のものにできる。壮大なストーリーだが、ある種の「言霊信仰」と言っていい。ただ、そう斬って捨てるには、宗教とそれを伝える言葉との関係は、現在でも複雑なものだ。
言葉と実在を、いったんは切り離し、人間の言語能力がそれを結びつけるという言語観は、人間の歴史から見ると、比較的新しいものだ。明らかなことは、宗教の起源と人間の言語能力の獲得は同時に起きただろうということ。
話を戻そう。
先に、言葉とものとを、「名付け」と「参照」という二重の仕方で結びつけた。ただ、こうした二項を密に結びつける素朴で単純な図式では、表現されないものが存在する。
一つは、言葉とものとの関係の「恣意性」であり、もう一つは、具体的には異なる複数のものが、「同一」の名前を持つことである。
ただ、この二つを、新しい図式で表現することは出来る。
図1は、様々な言語で、同じものが異なる名前を持つことを表現し、図2は、具体的には異なるものが、同一の名前を持つことを表現している。
いずれでも、緑の矢印は「名付け」を、青の矢印は「参照」を表している。
奇妙なことだが、両者は、同じ構造を持つ、双対な図式で表現される。今度は、その形式化を考えよう。
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