意味の形式的理論 -- 文の意味

外国語の翻訳をする時、個々の語の意味は分かるのだが -- 辞書を引けばそれは分かる -- 文の意味が取れないことがよくある。そうした意味では、シンボルや記号の意味論は、プリミティブで重要なものだが、文の意味は、それらに還元されるわけではない。
シンボルの素朴な意味論に、思考の中のシンボルとそれが指示する実在のものの対応関係が登場する様に、文の素朴な意味論には、文とそれが指示する現実との対応関係が現れる。
 「太陽が東から昇る」
 「一つの林檎ともう一つの蜜柑で、果物は二つ。」
文が、ある範囲では正確に、現実を反映しうるということは、とても大事な言語の性質である。このことを否定する必要はない。
ただ、文の意味の素朴な実在との対応理論は、シンボルの対応理論より、やや、つまらない。文は、必ずしも現実の関係を反映したものとは限らないからだ。現実にはないことを、我々は、文で表現できる。
 「僕は、巨大な虫に変身した。」
 「地球には、もはや生命は存在しない。」
(我々は、意味の表象は難しいが、"Colorles green sleeps furiously" のような「正しい文」を生み出すこともできる。)
人間以外の生物の認識能力は、基本的には、環境の中でよりよく生存するために必要なものに限られている。言語能力が我々にもたらした認識の最大の飛躍は、むしろ、そうした現実の認識という束縛から我々を解放したことにあるとさえ言っていい。
先に、言語能力の獲得と宗教の発生は、同じ時期に遡ると書いたが、芸術の起源も同じ時期に遡る。「ものがたり」は、「もの」を「かたる」ことから始まるのだが、いつか「もの」の世界は拡大し、実在する「もの」の背後にあるものを、人は語り始める。
現実は、見かけの現象のとおりではない。その背後には共通の実体があり、さらにはより深い本質がある。言語能力による認識能力は、一つのものを、一つのものではない、もっと複雑なものに分裂させる。それは、現代の「科学」の母胎でもある。
別の例で、文の意味について考えてみよう。
ある英語の文について、「その意味は?」と日本人に問われたら、その英文を日本語に訳すのは不自然なことではない。ただ、日本語の文について、「その意味は?」と日本人に問われたら、意味を問われた人は、むしろ当惑するだろう。
(例えば、この文章自体の「意味」について、同じ日本語で説明するのは、必ずしも簡単ではない。むしろ、英訳するほうが簡単である。)
二つの異なる言語の「同じ意味」を持つ二つの文の対応は、強いものだ。それぞれの文が、実在の反映であろうが、そうではなかろうが、二つの文の対応は確実に存在する。
一つの言語の中で文の意味を探すより、二つの言語の文を対応させるほうが、より明確に「意味の意味」を指し示すように見えるのは、ある意味、不思議なことだ。
シンボルの意味の素朴な対応理論や、文の意味の素朴な反映論も、基本的には同じ構造を持っていたことに気づく。より一般的に、一つのものではなく、二つのものの関係の中に、意味が現れるというのは、意味を考える上で重要なヒントになる。

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