カート・ヴォネガット

今日は、カート・ヴォネガットの命日だ。
12年前の今日、彼が亡くなった日に、僕はアメリカにいた。Google IOだったかMS BulidだったかJava Oneだったか、なんかのカンファレンスでサンフランシスコにいたのだ。
参加したカンファレンスの中身はすっかり忘れているのだが、帰国の時に空港の書店に、彼の死を悼んで特設のコーナーが設けられていたのを、今でも覚えている。彼は、アメリカでは広く愛されている作家なんだと、改めて思った。
ハヤカワからたくさん本が出ているので、日本では、SF作家の一人だと思っている人も多いのだが、
最初に読んだのは、「スローター・ハウス5」だった。ナチスによるユダヤ人の虐殺を非難する「連合国軍」側も、空爆で無数の無辜の命を奪っているという視点は、僕には衝撃的だった。この本を読んでから、「ヒロシマ・ナガサキ」と聞くと、「トウキョウ・ドレスデン」を一緒に想い出すようになった。(もちろん、「アウシェビッツ・ダッハウ」も。僕は、ダッハウに行ったことがある。)
僕は、彼の熱心な読者になった。
SFなんか読まないよという人にも、「筒井康隆と井上ひさしと大江謙三郎を足して2で割ったような作家」だと紹介した。三人とも好きな作家なのだが、3で割らずに2で割ったところに、僕のヴォネガットに対する「敬意」を込めたつもりだった。
筒井康隆がノーベル文学賞を取れなくてもがっかりする人は少ないと思うのだが、村上春樹は、ヴォネガットの熱心な読者の一人だったと思う。(僕は、筒井も村上も好きである)
ヴォネガットが、ノーベル文学賞にノミネートされたことがあったかは、僕は知らないが、20世紀の文学を代表する作家の一人だと僕は勝手に思っている。
彼は、ある作品の中で、彼の分身の一人に、ノーベル賞を与えている。文学賞ではなく医学賞なのがご愛嬌である。
もっとも、人間は、脳内の神経伝達物質(それらは「麻薬」の主成分でもある)の化学反応で動作する機械なのではという疑問は、彼の本で繰り返される主題の一つである。だから、ノーベル文学賞よりノーベル医学賞なのだと思う。
ヴォネガットが、彼が想像の中で作り上げた彼の分身キルゴア・トラウトに、ノーベル医学賞を与えるのは、「チャンピオンたちの朝食」の中でである。("Breakfast of Champions" 邦題だが、多分「勝者たちの朝食」の方がいいように思う。日本語の語感的には、その世界で何人かしかいない「チャンピオン」より、競争社会が無数に生み出す、自分は「勝者」だと思っている人間のことを描いているのだから)
「チャンピオンたちの朝食」は、自動車のセールスマンとして成功をおさめた男が、怪しい売れないSF作家キルゴア・トラウトの思想の影響を受けて、「自分以外の人間は、人間のように見えるが、実は、みなロボットである。この世界で自由意志を持っているのは、自分だけである」と考えるにいたった狂気を描いたものだ。
最近では、人工知能をめぐる議論は、様々にあるのだが、機械の知能の問題は、生化学的な機械としての人間の知能の問題と切り離すことはできないと僕は思う。「人工知能の時代」は、ヴォネガットの作品の魅力を一層高めるに違いない。(そうなればいいな)
架空の人物キルゴア・トラウトは、ヴォネガットの作品に何度も何度も登場する。昨日今日、話題になっている「神学者カール・レーフラー」の「作者」も、ヴォネガットのファンだったのかもしれない。

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