「異端」としてのチューリング



チューリングのディジタル・アーカイーブをチェックしていたら、とてもとても面白い論文を見つけた。
"Intelligent machinery, a heretical theory" 「知的機械、ある異端的理論」https://goo.gl/Rcwku6
有名な Mind誌に寄稿した50年の彼の論文 "COMPUTING MACHINERY AND INTELLIGENCE" https://goo.gl/p5ttGY のあと、51年のどこかでの講義ノートの草稿だ。
僕が驚いたのは、前半の機械による数学的証明に関する部分と、後半の機械の「教育」(かれは、"Learning"ではなく"Education"という言葉を使っている)に関する部分だ。
全然、「異端的(heretical)」でも「異教的」でもないじゃないか。現在の我々から見ると、どんぴしゃりの「正統派」の洞察である。
機械による数学的証明について、彼はいう。
「機械は、例えば、プリンキピア・マセマティカの形式的証明の妥当性をテストできるだろうし、そうした体系のある命題が証明可能か証明不可能かさえも、教えてくれるだろう。その命題が証明可能でも証明不可能でもない場合には、マシンは結果を返すことなくずっと動き続けるので、満足できる振る舞いをしないかもしれないのだが。 ... 数学者だって、フェルマーの定理が真か偽か数百年考えているのだから。」
こうした認識は、アーロンソンが、複雑性理論の嚆矢として高く評価している、1956年のゲーデルからフォン・ノイマンにあてた手紙と通底するものだ。(それについては、僕の「ナッシュとゲーデル」 https://goo.gl/vjSLx1 を読んでほしい。)
もっと面白いのは、機械が間違ったことを言ってもいいという、次のような主張だ。
「私の主張は、機械たちが、人間の心の振る舞いを非常に正確にシミュレートするように構成できるということだ。機械は、時には間違いをおかすだろうし、時には、新しい面白いことをいうかもしれない。」
それは、人間だって同じだろうと彼はいう。機械が間違った証明をしても、
「そうした機械の教育は、高い能力を持った師匠に委ねられるべきだと私は考えている。この師匠は、この問題には関心を持っているが、機械が内部で行う作業の詳細な知識を持つことは禁じられていていい。」
これって、現代の複雑性理論での、"IP: Interactive Proof"とか、"MA: Merlin-Arthur”問題と言われているものと、全く同じ構造なのだ。
IPまたはMAについては、別の機会に説明したい。ただ、量子複雑性理論での、QMA(Quantum Merlin Arthur)問題は、古典複雑性理論でのNP問題に対応するものだ。
(横道にそれるが、古典複雑性理論での「P問題」は、量子複雑性では「BQP問題」に対応する。だから、古典論での「P vs NP」問題は、量子論では、「BQP vs QMA」問題になるのだが、わかりにくい。BQPをQPに、QMAをQNPに「改名」すれば、古典論の「P vs NP」問題は、量子論での「QP vs QNP」問題になって、わかりやすいと思うのだが。)
だいぶ長くなった。後半の機械の教育に関する紹介がまだなのだが、それは、別の機会に譲ろう。
一言だけ。この論文で、彼は、「心理学者が言う「快楽原理」に基づいた」機械の教育を考えている。これは、現代の「強化学習」の基本的な考え方と、同じものだ!「強化学習」のアイデアを、すでにチューリングが持っていたの、みんな知っているのかな? 少なくとも、僕は知らなかった。
「そう言うことを考えるのは、もしも我々が、ガリレオの時代の宗教的寛容さより、非常に大きな進歩をとげない限り、もちろん、非常に大きな反対意見に、遭遇することになるだろう。」
彼が考えていたことは、異端でもなんでもないと叫びたくなった。
もっとも、当時のイギリスは、彼を、同性愛の犯罪者として強制的に断種しようとした。彼の「異端」意識には、別の意味での根拠はあったのかも。LGBTの人たちを「生産的」ではないと、考える人が、現代の日本にも、まだいるのだが。
調べてみたら、この草稿、45年後の1996年に、Philosophia Mathematica誌に掲載されている。https://goo.gl/uisxcm こちらのPDF版の方が、読みやすい。

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