カテゴリーのenrich化
【 カテゴリーのenrich化 】 このセッションは、Tai-Danae Bradleyらの理論を理解するのに必要な「enrichedカテゴリー論」についての話です。 「enrichedカテゴリー論」は、日本語だと「豊穣圏論」と訳されることがあるのですが、あまりいい訳とは思えません。 「圏論」自体、硬い訳語だと思うのですが(「カテゴリー論」でいいと思います)、「豊穣圏論」はもっと硬くて難しい印象を与えます。 こうした学術用語での「日本語優先主義」というより「漢字優先主義」は、かつて、と言っても明治初期の西洋の技術や科学を受入れる時には、「漢字の力」は大成功を収めるのですが、今は、そういう時代ではないと思います。 日本語も大きく変わっています。「コンピュータ」「スマホ」といったカタカナ言葉はもはや日本語の一部ですし、”TV”や”DVD”というようにアルファベットを直接使うことも珍しいことではありません。 訳語の選択についてですが、enriched categoryを「豊穣圏」と訳し、enrich化することを「豊穣化する」と訳すのに、僕は違和感を覚えています。 あるカテゴリーから出発して enrich化を何度も適用すれば、「豊穣」なカテゴリーが次々と生まれるというイメージがあるのかもしれません。 ただ、「enrich化」によってカテゴリーが豊かになるのは確かなのですが、それは「豊穣」のような大袈裟な形容詞を必要とする変化ではないと思っています。 enrich化については、もう一つ大事な視点があります。 今回のセッションの最後に簡単に触れているだけなので、説明不足なのですが、enriched カテゴリー論は、豊なカテゴリーを生み出すためだけでなく、カテゴリー論自身を基礎付ける試みとして利用されます。 ある芸術家の想像力が生み出した作品群を「豊穣である」と表現することはできると思いますが、その芸術家の自己分析・内省を同じ「豊穣」という言葉で評するのは、適切だとは思えません。「豊かで深い分析」ぐらいでいいと思います。 【 今回のセッションでの用語について】 というわけで、今回のセッションでは、「豊穣圏」でなく、「enriched カテゴリー」という言葉を使っています。また、「豊穣化する」は「enrich化する」、「豊穣化される」は「enrich化される」という言葉を使って...