意味を考える 6 -- 鏡

我々は、他人の顔は見れるのだが、自分の顔を直接見ることはできない。写真やビデオがこんなに普及する以前、自分の顔を見る手段は、鏡しかなかったと思う。

自分の顔を鏡で見る時、「見る人」と「見られる人」は、同じ人だ。ただ、この同じ人が、鏡によって「見る人」と「見られる人」の二人に分離される時、普段は見ることのできない自分の顔を見ることができる。

以前に、「私はあなたを愛しています」という文の「意味」を考えるより、「 "I love you." の「意味」は、「私はあなたを愛しています」だ」と考える方が簡単だと書いたのだが、このことも、「翻訳」はある言語を他の言語にうつす鏡のようなものだと考えれば、いいのだと思う。

確かに、鏡に映る自分の顔は、他人のみんながいつも見ている顔であることに変わりはないし、「私はあなたを愛しています」を "I love you." と言い換えたところで、「愛」についての認識が深まるわけではない。

ただ、ある二つのものの関係の中で、あるものを考えるのは、あるものだけをじっと見ているより、普段は気づくことのないものへの気づきが生まれると僕は考えている。

「意味」についてもそうだ。意味についてのアプローチは、様々あるのだけれど、ソシュールのシニフィアン(signifiant:意味するもの)とシニフィエ(signifié:意味されるもの)にしても、オグデン=リチャードの「意味の三角形」の「シンボル」と「指示するもの」「指示されるもの」にしても、こうした「二項関係」が基本になっている。(三角なのに二項なのかにというツッコミは、あとでこたえる)

こうした二項関係は、もっと深いところでは、「主体」と「客体」、「認識するもの」と「認識されるもの」という認識の構造そのものに基礎を持っている。

図は、ペンローズから。彼は、ビデオで鏡に映るビデオを撮影しても、ビデオは何も認識していないという。確かにそうだ。ただ、彼は、機械は、それだけでは意識を持ち得ないという立場を取っている。コンピュータのプログラムに意味など理解できるはずはないというのだ。

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