意味の形式的理論 -- Functorial Semantics
【 「意味の世界」の広がりについて 】
このところ「意味」の話をよくしているのですが、そこでの「意味」は、ほとんどの場合、「ことばの意味」のことです。
耳で聞くはなし言葉と、目で見る文字で書かれた文では、意味理解の仕方は異なるものですが、あまりその違いを意識することは少ないかもしれません。
それは、両者とも「ことば」としてくくることができて、両者とも同じ意味を伝えることができることを、よく知っているからです。
ただ、「意味」の世界は、ことばの世界にだけ広がっているわけではありません。
「ことば」を持つのは人間だけですが、ことばを持たない動物も、世界を「意味の連関」として捉えているのは確かなように、僕は考えています。
「意識」なしでは「意味」の認識は不可能だと思われるので、それは、「意識」が、生物の進化の歴史の中でいつの段階で生まれたのかという問題にもつながっていきます。コロナ・ウィルスに「意識」を見出すのは難しいと思いますが、我々、人間だって、我々を構成する数兆の細胞の一つ一つに、「意識」があると主張できる訳ではありません。
こうした方向で下降していくと、生物と無生物の境界にたどり着くのですが、そこまでいくのなら、「意識」ではなく「情報」のあり方として問題を捉える方が、スマートにリーチが広がるように思っています。
確かなことは、「ことばの意味」の世界は、我々の「意識」の進化の一つの到達点だということです。その意味では、我々皆の前に広がっている「ことばの意味」の世界は、「意味」を考える上で、とても重要な対象だと、あらためて思います。
ただ、この到達点は、中間的なものだと僕は考えています。
基本的には、ことばを自在に操る言語能力の上に、数学的な能力が構成されていきます。歴史的には、我々は、現在の言語能力を10万年近く前に獲得しています。ただし、文字の歴史は、たかだか数千年のものです。そして、文字の発明と数学の誕生は、ほぼ同時期です。
今回のセッションから始まるセミナー第二部の「もう一つの意味の分散表現論」は、数学的なことばと意味の理論の基礎を紹介しようとしたものです。
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