ことばの構成性 – Pregroup Grammar
【 知っているけど、知らないこと 】
今回のセッションは、Chomskyの「生成文法」論を出発点とする現代の文法理論を、LambekのPregroup文法を一つの到達点として紹介しようというものです。
ことばは、より基本的な要素からあるルールに従って構成されています。これをことばの「構成性」と言います。少し単純化して、この基本的な要素を「語」、そのルールを「文法」と呼ぶことにしましょう。
意味もまた、より基本的なものから、何らかのルールに従って構成されていると考えることができます。意味もまた「構成性」を持つのです。
ここでは、まず、ことばと意味の「構成性」についての、基本的な観察をまとめてみましょう。
⚫️ 文は文法に従って語から構成される
⚫️ 文の意味は、語の意味に依存し、語の意味から構成される
⚫️ 文の意味は、文の文法的構成に依存する
こうした観察は、現代の言語学が初めて行った訳ではありません。
少なくとも、ことばの構成性としての文法については、驚くべきことに、紀元前4世紀に、インドのパーニニは、精緻なサンスクリット文法の記述を成し遂げていたと言います。インド人恐るべしです。
パーニニは、「生成文法の祖」と言われることもあるのですが、残念ながら、サンスクリット語を知らない僕には、彼が説明しようとしたこと、彼の文法理論をうまく説明することはできそうもありません。
僕らが、ある言語の「文法」を語ることができるのは、僕らが「よく知っている」言語についてだけです。それでは、逆に、僕らは、「よく知っている」言語について、その「文法」を「よく知っている」と言えるでしょうか?
僕は日本語は普通に読み書きできます。それは、文法的に正しい日本語を話すことができ、文法的におかしい日本語はそれと気づくことができるということですので、日本語の文法を知っているということはできるかもしれません。ただ、僕は、日本語の文法を、きちんとは知りません。
ある言語を自由に使えるということと、その言語の文法を知っているということは、イコールではありません。日本語の文法など知らなくても、僕らは、日本語を使えます。でも、僕らの「どこか」では、日本語の文法を正確に理解しているのです。
誰もが暗黙のうちには自明のこととしてそれを知っているのに、誰も明確な形ではそれを意識しないという、「文法」の奇妙な性格は、パーニニを稀有な例外として、ことばの構成性・文法性に関心を持つまでに、長い時間を必要としたことを説明すると思います。それは、あまりに当たり前に思えたからです。
また、それは、現代の言語学の主要な関心が、言語の文法に向けられていることも説明すると思います。当たり前と思われることの背後に、精緻な構造が隠されていることに、気付いたからです。
「ことばの構成性」としての文法と比べると、言葉の「意味」は、誰にとっても直接に理解できるもののように思われます。「意味」を共有することが、言語の最も重要な働きですので。
ただ、そうした意味についての自明の関心とは別に、「ことばの構成性」と「意味の構成性」を結びつける理論が必要だというのが、僕の関心です。
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