死者との距離
秋田の実家を解体・改築中なのだが、甥っ子が仏壇の下の棚から家族の古いアルバムを何冊か見つけた。別の甥っ子がその一部をスマホで撮って送ってくれた。今は、この世にいなくなった人も、たくさん写っていた。そして、母と一緒に写っている僕には、その記憶がない。
過去の記憶が時間とともに薄れていくことと、懐かしいという感情には繋がりがあるのだと思う。我々が過去の全てを完璧に覚えているなら、そういう感情は必要ないのだから。
100年以上前に初めて写真を見た人たちの驚きはよく理解できる。同時に、それが死者の姿を現世に留める役割を持ちうることに、人はすぐに気づいただろう。
写真がなかった時代、死者の記憶を人が長く持ち得なかったわけでは決してないはずだ。長く消えない記憶は存在する。そして、写真もアルバムも、いつか古びて朽ちる。人間とその記憶と同様に。
ただ、何かが変わっていく。
昔、家には電話は、たいてい一台しかなかった。電話の横には、その家の「番号帳」が一つあった。転出した人は、横棒を引いて消していた。家の電話帳を持ち歩く人はいなかった。
僕が初めて携帯電話を持った時分の話だ。携帯の「番号帳」の中に、亡くなった友人の電話番号を、思いがけずに見つけて、僕は少し震えた。あの友人の電話番号を、僕は、ずっとポケットに入れて持ち歩いていたのだと思うと不思議な気持ちになった。
懐かしくて電話をかけてみた。一人暮らしのはずだったのに、不思議なことに呼び出し音が鳴る。本人が出たらどうしようとおもったが、誰も出ず、途中で電話を切った。不要になったはずのその番号を僕は消せなかった。30年後の今も、それを持ち歩いている。
電子的な記憶は、おそらく、写真より長持ちする。もしも僕が、150歳まで長生きできれば、僕の電話帳は、死人のリストでいっぱいになるだろう。
それは不自然なことではない。これまで、生きた人の数と死んだ人の数は、通算すれば、ほぼ同じくらいだろうが、これまで死んだ人の数は、現在、生きている人の数より、はるかに多いはずだから。
まだ若いネット上の記憶も、いつか、古い図書館と同じように、死者の記憶でいっぱいになるだろう。
「親父の命日が4月27日で、葬儀は29日。この日は桜が満開だった。親父は、良寛の「願わくば 桜の下で 春死なん ~」を叶えちゃった感じ。29日は、親父夫婦と僕たち夫婦の結婚記念日でもあるし。この辺り、僕も狙っています。
その頃までには、改築工事も終わっているはずです。
あと、きりが良いのが7月19日、僕の誕生日です。
こんな事を考えながら病院の一日が過ぎて行きます。」
その頃までには、改築工事も終わっているはずです。
あと、きりが良いのが7月19日、僕の誕生日です。
こんな事を考えながら病院の一日が過ぎて行きます。」
「あのうたは、西行だよ。4/27より7/19がいいとおもうよ。」
ほんの一月前には、弟とどの日に死ぬのがいいか冗談を言い合っていた。満開のサクラを見せたかった。でも、死ぬ日を決めるのは難しい。
何かが変わっていく。
死者との距離が、変わっているのだと思う。かつて、死者は、人間のはかない記憶の中に、おもいでとしてのみ存在した。古びていく写真も、その記憶を支える脇役でしかなかった。
ただ、今は、死者を思い出すのに、古いアルバムや古い手紙の束を、苦労して探したりする必要はない。死者の記録は、人間の記憶以上に鮮明に、クラウドや胸のスマホの上に、古びることもなく刻まれていく。そして、それは、すぐに呼び出せる。
それは、いいことなのだろうか?
だいいち、悲しいじゃないか。でも、それは、「いいこと」の一つなのかもしれない。ただ、死者との距離が「バーチャル」には、無くなっていくと考えるのは、きっと大きな間違いだと思う。
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