「心の貧しい人々は幸いである。」

多くの人は、「豊かな心」を持つことが、幸福に生きるためには、大事だと考えていると思う。それはそれで、いいことなのかもしれない。以前に紹介したGoogleのラリー・ページの「幸福論」も、人々に「心豊かに」生きることを説いているように見える。  https://goo.gl/qfgV7K

ところで、イエスの最も有名な説教である「山上の垂訓」は、「心の貧しい人々は幸いである。」という言葉で始まる。なかなかショッキングな語り出しである。

イエスが呼びかけている対象は明確であるように思う。それは、生を「苦」と感じ、老いや病いに苦しみ、心が折れかけている人への呼びかけ、「絶望」している人々への呼びかけなのだと思う。「豊かな心」の「リア充」の人に語りかけているのではない。けっして、ネットで散見する「誤訳」なのではないと思う。

それは、法然・親鸞らの「善人なおもて往生をとぐ。いわんや悪人をや。」という教えと、通底する。

イエスが「心の貧しい人々」と対比しているのは、どのような人たちなのだろう? それは、次のような祈りを捧げるファリサイ人に対する、イエスの非難を見ればわかるような気がする。

『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します。 わたしは週に二度断食し、全収入の十分の一を献げています。』(ルカ18)

「徴税人」は、当時は、もっとも下賎な職業とみなされていたらしい。(財務省次官や国税庁長長官のような現代のエリートとは違うのだ。)イエスが非難しているのは、「自分は正しい人間だとうぬぼれて、他人を見下している人々」のことだ。「豊かな心」を持とうとする人が、そうならないことを願う。

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