研究と教育

(2年前のFacebookへの投稿から)
https://www.facebook.com/fujio.maruyama/posts/10220302438088591

一月のセミナー「論理学入門」では、10代 - 20代の若い世代に、参加費の割引をした。それは、もちろん、彼らが 20代 - 30代になる10年後には、今回学んだことがきっと役に立つと考えているからだ。

ただ、そういうことを意識すると、いろいろ微妙な問題があることに気づく。

「いつか役立つ」ということは「いまは役立たない」ということなのか?

「役に立つ」ということなら、新しい課題に取り組むには、古い課題の知識は「役に立つ」。

僕の経験でも、量子コンピュータを教えるつもりでも、気がつくと、一生懸命、行列の掛け算を教えていた。遠回りだが、それなしでは量子論は理解できないからだ。

今回のセミナーもおんなじだ。Coqや形式手法の話をしようと思っていたのだが、なかなかうまく伝わらない。その原因の一つは、論理学の初等的な知識がないことにあると思っている。ないものは埋めないと次に進めない。

多分、「教育」というのはそうしたものなのだろう。(僕のやり方では、スケールしそうもないのだが)

誤解を恐れず一般化すると、未来を切り開く「研究」と過去の達成を学ぶ「教育」は、結びついている。現在の「研究と教育」の双方が「忙しすぎて」そうしたことを考える余裕を失っているのなら、いいことはない。

今回のセミナーでは、「証明」の話をするのだが、ギリシャのユークリッドらの数学は、西欧世界では、若い世代に継承されず、数百年もの間忘れ去られていた(それを伝え続けたのはイスラム世界だった)。中世ヨーロッパでは、大人・老人同様、若者も暗愚だった。

もっとも、「教育」を客観的な対象として語るのはあまりいいこととは思えない。教育の主体は「教育者」でも「制度」でもない。個人がいかに学ぶかが重要なはずだ。

若い世代が、「いつか役立つ」ことを学ぶことは、もちろんいいことだ。ただ、「いつか役立つ」が学ぶことの目的なら、若くない世代が学ぶことは、意味がないことにならないか? あるいは、我々は、何歳になったら学ぶ意味を失うのだろうか?

 子曰、朝聞道、夕死可矣。

 〔子曰く、朝に道を聞かば夕べに死すとも可なり、と。〕

こうした議論をアナクロと感じる人も多いだろう。ただ、僕は、学びについては、深い認識だと思う。

学ぶことに、年齢は関係ない。

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