脳研究の動向
【 脳研究の動向】
セミナーのこのパートでは、Fristonらの「脳の理論モデル」を紹介しようと思います。
ただ、今回のセッションでは、 本論の「脳の理論モデル」の話に入る前に、2014年にEUの “Human Brain Project” で起きた、脳研究の方法をめぐる大きなトラブルと“Human Brain Project”の一時的挫折を振り返ってみようと思います。
それは、今回取り上げる「脳の理論モデル」への関心の高まりの、背景の一因だと、僕は考えています。
【 10年前の脳研究の失敗を振り返る 】
10年前の脳研究を振り返る時、そこには、新しい研究手法への期待があったことがわかります。一つは、非侵襲的な脳のモニター技術が大きく進化したことです。脳の血流を、MRIやCTよりもはるかに正確に、かつリアルタイム(200ms間隔)に、観察する新技術が登場します。
もう一つは、DNAシークエンサーの性能が飛躍的に進歩します。最初のヒトゲノムの解析には、10年と30億ドルかかりました。2010年までには、ヒトゲノムの解析は、一ヶ月以内で3万ドルで出来るようになりました。 2013年当時は、ヒトゲノムの解析は、数日で4000ドル以下で出来ます。DNAシーケンサーのコスト・パフォーマンスは、コンピュータでのMooreの法則よりも速いスピードで向上しているといいます。
当時 Blue Brain Project を率いていた、Henry Markramは次のように語っていました。
「私は、脳のモデルが欲しかった。なぜなら、我々は脳を理解していなかったからだ。」
「あるものがどう動いているのかを理解する最良の方法は、それをスクラッチから作ってみることだ。」
彼のリーダーシップの下に、2013年10月、EU Human Brain Project が立ち上がります。10年間で総額12億ユーロが投じられる一大プロジェクトでした。その「ビジョン」は、次のようなものでした。
「 人間の脳を理解することは、21世紀の科学が直面している最も偉大な挑戦の一つである。もしも、我々が、それに対して立ちあがることが出来るならば、我々は、我々を人間にしているものが何であるかについて深い洞察を得て、革命的なコンピュータ技術を構築し、脳の異常に対して新しい治療法を開発出来るだろう。今日、初めて、現代のICT技術が、こうした目標を到達可能なものにしている。」
「ビジョン」だけでなく、その「中心的戦略目標」も壮大なものでした。
「未来のニューロサイエンス:遺伝子から行動に至る、生物学的器官のすべてのレベルを貫いて、健康な脳と病気の脳についてのデータと知識を統合した、人間の脳の統一された複数レベルでの理解を達成する。こうして、脳を理解する基本的な方法論として、シリコン上での実験を確立する。」
「未来のコンピューティング:脳の回路とコンピュータの原理に基づいて、新しいニューロコンピュータとニューロロボットの技術を開発する。脳のシミュレーション、ロボットと自律的なシステムコントロール、その他のデータを大量に利用するアプリケーションの為にスーパーコンピュータの技術を開発する。」
ここでは、「脳を理解する基本的な方法論として、シリコン上での実験を確立する。」というフレーズに、留意してください。
今から考えても、10年以内で達成できる目標とは思えないのですが、プロジェクトの破綻は、一年もたたずにやってきました。
発端は、次年度のプロジェクトの予算配分で、認知科学的なアプローチの予算が、ばっさりと切られたことにありました。それに反発した研究者のグループが150名の連名で、欧州委員会に公開質問状を提出し、Markramの運営方針を批判したのです。2014年の7月のことでした。
対立の根底にあったのは、脳研究でのアプローチの違いでした。Henry Markramら主流派は、ニューロンとシナプスの数学的モデルに基づいて脳全体のモデルを、コンピュータ上にボトムアップに作り上げようというアプローチでした。 一方、反対派は、脳研究には、認知科学の知見に基づいたトップダウンのリバース・エンジニア的なアプローチが必要だという立場でした。
僕は、当時、Markramのアプローチも面白いなと思っていたのですが、論争の中で反対派の人が発した次のような言葉に惹かれていました。
「鳥の羽の全てをシミレーションしたとしても、鳥が空を飛べることを解明出来ないのと同じことだ。」
それは、現在の我々にとって、10年前とは別の意味で重要な観点だなと思います。なぜなら、「大規模言語モデルで、人間の言語能力をコンピュータ上でかなり上手にシミレーションできたにも拘らず、人間の言語能力だけでなく、コンピュータが獲得したように見える言語能力の解明もできない。」ことが、現在の我々の大きな悩みだからです。
【 脳の理論モデル 】
Fristonらの「脳の理論モデル」の研究は、 Markramのようにコンピュータ上に脳のモデルを作ろうというものでも、それに反対した認知科学者たちのアプローチとも異なるものです。
それは、「脳のモデル」を構築する上で、Markramのようなプラグマティックな方法論ではなく、「原理的」な方法論を明確にしようという問題意識を彼らが持っていることだと思います。Fristonはそれを「最小自由エネルギー原理」と呼びます。
全てをそれで説明しようとするのは難しさもあるかもしれないのですが、その立場は、Prigogene や Jaynesといった、20世紀の偉大な達成を忠実に受け継ごうとしているように、僕には思えます。
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ショートムービー「 脳研究の動向 」を公開しました。
https://youtu.be/g8pB51vrfPo?list=PLQIrJ0f9gMcM1CSCpFfUuf25kD7b1JMM2
資料 pdf「脳研究の動向」
https://drive.google.com/file/d/193HptJMnw9mi14HtIwfKdtuE_9xqaems/view?usp=sharing
blog:「 10年前の脳研究の失敗を振り返る 」
https://maruyama097.blogspot.com/2023/07/blog-post_16.html
セミナー「エントロピーと創発」まとめページ
https://www.marulabo.net/docs/emergence/
https://www.marulabo.net/docs/emergence/
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