科学と虚構
科学には、いろいろな分野あります。自然科学、社会科学、人文科学 ... 。
ただ、現代では科学といえば、自然科学をさすことが普通なようです。で、他の科学は無視して、今日は自然科学の話をしようと思います。でも、自然科学にも、いろいろあります。数学、物理学、生命科学、情報科学....。
個人的な話ですが、こうして科学の分類をしていくと、実は、僕は困ることになります。さきに、社会科学、人文科学は無視しようと書いたのですが、僕は大学院では、数理哲学を研究していました。哲学は、普通、人文科学ですよね。さらに、僕の入った大学院は、社会学研究科の中に哲学の講座があったので、僕は、社会学の学位をもらうことになります。
最初に、科学という言葉でイメージされているものについて話そうと思います。
科学を、確実にわかっているものたちから、確実だと思われる結果のみを導こうとする方法だと考えるのは、少し窮屈な科学観だと僕は感じています。数学でも、そうです。数学的に正しい命題は、どんな具体的な知識も前提にせずに導かれるという意味では、情報を持ちません。ただ、そうした数学観では、数学の世界はトリビアルなトートロジーの世界になってしまいます。
科学者や数学者を動機づけているのは、そういう研究をしたいということではないと思います。彼らを突き動かしているのは、そこに理解できないこと、一見すると手が出ないほど複雑なこと、とても不思議な「謎」があるということです。科学と科学では解かれていない「謎」があるという認識は、両立可能です。
むしろ、「謎」がない世界では、科学は必要なくなります。だから、なんでも説明できる究極の理論があるとか、全ての「謎」は解けているという主張を、僕は疑います。
類人猿の中から、僕らの祖先が、多分、言語能力の獲得をきっかけに「人類」として独立した時、人間の認識能力は飛躍的に発達しました。アフリカの平原で満点の星空を見て、我々の祖先が感じたものは、無数の「謎」だったと思います。
ただ、彼は「畏怖」の念に打ちひしがれていただけではなかったと思います。「なぜ?」という問いかけは、別の行動を生み出します。おそらく、科学も宗教も哲学も芸術も、プリミティブな形では、別々のものに分離されずに、同時に生まれたと僕は思っています。
科学の源流は古代ギリシャの自然哲学です。そこでは科学と哲学は混じりあっていました。ニュートンらの科学革命は、科学を宗教から独立させる大きな一歩でした。この科学革命のマインドセットが産業革命を準備し、科学とその応用としての技術の分離も始まります。そうして、科学者という専門家集団を中心とした、現代の科学のスタイルがだんだんと形づくられていきます。
僕がやっていた数理哲学の基本的な問題は、一見バーチャルな構成物に思える数学的な理論が、なぜにリアルな実在の世界に適用できるのかという問題です。数学の基礎には、哲学的な認識論との接点がいくつもあらわれます。
数学の世界をバーチャルに構成する力は、人間が現実の世界を離れて「虚構」の世界を構築する力と、実は、同じものだろうと僕は考えています。
科学と虚構は、それぞれ別の道を歩んできました。基本的には、現代では、それは水と油のように別のものになっていると考えていいと思います。ですから、科学と虚構の違いを述べることに、あまり意味はないのかもしれません。ただ、僕には、いくつか気になることがあります。
科学の知は、基本的には「累積的」で、正しいと見なされたものが積み重なっていきます。ですので、僕らは理論の前提をいちいち疑わなくとも、先行した「巨人たち」の肩の上に簡単に乗っかることができます。
このことは、科学の知の担い手は、科学者個人だけではないことを意味します。大げさに聞こえるかもしれませんが、科学の主体は、「人類」そのものだと僕は考えています。(もっとも、科学の「常識」と言われるものは、時々大きく変わります。)虚構には、あまりそうした「累積性」はありません。虚構の担い手は、個人です。
科学は最終的には数学的な認識に依拠し、虚構は言語的な認識に依拠します。問題は、言語能力は全ての人間に、生物学的能力として先天的にビルトインされているのに対して、数学的認識能力は、後天的な学習・教育によって獲得されるということです。そのことは、一般の人の中で感じられている科学の分かりにくさを、ある程度説明するものです。
ただ、そうした科学の「分かりにくさ」は、やむを得ないことなのでしょうか?
「科学の未来」を語る上で、僕が一番興味があることは、個々の科学的発見の未来ではなく、皆が科学者になることは可能かという問題です。
そのために、科学の対極にあるように見える虚構のことを考えてみるのは、面白いと思っています。
ただ、現代では科学といえば、自然科学をさすことが普通なようです。で、他の科学は無視して、今日は自然科学の話をしようと思います。でも、自然科学にも、いろいろあります。数学、物理学、生命科学、情報科学....。
個人的な話ですが、こうして科学の分類をしていくと、実は、僕は困ることになります。さきに、社会科学、人文科学は無視しようと書いたのですが、僕は大学院では、数理哲学を研究していました。哲学は、普通、人文科学ですよね。さらに、僕の入った大学院は、社会学研究科の中に哲学の講座があったので、僕は、社会学の学位をもらうことになります。
最初に、科学という言葉でイメージされているものについて話そうと思います。
科学を、確実にわかっているものたちから、確実だと思われる結果のみを導こうとする方法だと考えるのは、少し窮屈な科学観だと僕は感じています。数学でも、そうです。数学的に正しい命題は、どんな具体的な知識も前提にせずに導かれるという意味では、情報を持ちません。ただ、そうした数学観では、数学の世界はトリビアルなトートロジーの世界になってしまいます。
科学者や数学者を動機づけているのは、そういう研究をしたいということではないと思います。彼らを突き動かしているのは、そこに理解できないこと、一見すると手が出ないほど複雑なこと、とても不思議な「謎」があるということです。科学と科学では解かれていない「謎」があるという認識は、両立可能です。
むしろ、「謎」がない世界では、科学は必要なくなります。だから、なんでも説明できる究極の理論があるとか、全ての「謎」は解けているという主張を、僕は疑います。
類人猿の中から、僕らの祖先が、多分、言語能力の獲得をきっかけに「人類」として独立した時、人間の認識能力は飛躍的に発達しました。アフリカの平原で満点の星空を見て、我々の祖先が感じたものは、無数の「謎」だったと思います。
ただ、彼は「畏怖」の念に打ちひしがれていただけではなかったと思います。「なぜ?」という問いかけは、別の行動を生み出します。おそらく、科学も宗教も哲学も芸術も、プリミティブな形では、別々のものに分離されずに、同時に生まれたと僕は思っています。
科学の源流は古代ギリシャの自然哲学です。そこでは科学と哲学は混じりあっていました。ニュートンらの科学革命は、科学を宗教から独立させる大きな一歩でした。この科学革命のマインドセットが産業革命を準備し、科学とその応用としての技術の分離も始まります。そうして、科学者という専門家集団を中心とした、現代の科学のスタイルがだんだんと形づくられていきます。
僕がやっていた数理哲学の基本的な問題は、一見バーチャルな構成物に思える数学的な理論が、なぜにリアルな実在の世界に適用できるのかという問題です。数学の基礎には、哲学的な認識論との接点がいくつもあらわれます。
数学の世界をバーチャルに構成する力は、人間が現実の世界を離れて「虚構」の世界を構築する力と、実は、同じものだろうと僕は考えています。
科学と虚構は、それぞれ別の道を歩んできました。基本的には、現代では、それは水と油のように別のものになっていると考えていいと思います。ですから、科学と虚構の違いを述べることに、あまり意味はないのかもしれません。ただ、僕には、いくつか気になることがあります。
科学の知は、基本的には「累積的」で、正しいと見なされたものが積み重なっていきます。ですので、僕らは理論の前提をいちいち疑わなくとも、先行した「巨人たち」の肩の上に簡単に乗っかることができます。
このことは、科学の知の担い手は、科学者個人だけではないことを意味します。大げさに聞こえるかもしれませんが、科学の主体は、「人類」そのものだと僕は考えています。(もっとも、科学の「常識」と言われるものは、時々大きく変わります。)虚構には、あまりそうした「累積性」はありません。虚構の担い手は、個人です。
科学は最終的には数学的な認識に依拠し、虚構は言語的な認識に依拠します。問題は、言語能力は全ての人間に、生物学的能力として先天的にビルトインされているのに対して、数学的認識能力は、後天的な学習・教育によって獲得されるということです。そのことは、一般の人の中で感じられている科学の分かりにくさを、ある程度説明するものです。
ただ、そうした科学の「分かりにくさ」は、やむを得ないことなのでしょうか?
「科学の未来」を語る上で、僕が一番興味があることは、個々の科学的発見の未来ではなく、皆が科学者になることは可能かという問題です。
そのために、科学の対極にあるように見える虚構のことを考えてみるのは、面白いと思っています。
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