神田古本市

昨日は、神保町で友人と会食。「古本市」をやっていた。
紙の本を買わなくなって久しい。神田の古本屋街で本を見て回った最後はいつだったか思い出せないくらい、久しぶりだ。
昔、よく行っていたお店で、「原書」(懐かしい響きだ)の専門書を手にとって鉛筆書きの「値段」をみてびっくり。高いじゃないか。一万とか二万があたりまえなんだ。
路上で露天売りしている本の中に、井筒俊彦の「意識の形而上学」を見つける。800円だった。これは、買った。掘り出し物を見つけるのは楽しい。でも、この楽しさって、「骨董品」趣味と同じようにも思える。
インターネットの立ち上がりの時期に、ネット上のルーブル美術館が人気だったことがある。そのころ流行ったジョーク。
 大金持ちは、名画を買う。
 小金持ちは、高価な名画の画集を買う。
 貧乏人は、ネットで、ただで名画を見る。
ベンヤミンが「複製技術時代の芸術」で、複製技術の登場で、芸術作品は、それがかつて持っていた「オーラ」を失うと論じたのは、インターネットの登場の遥か以前の1930年代のことだ。彼が主要に念頭に置いたのは、写真技術だったが、慧眼である。
ネットでの情報の共有というのは、誰もが簡単に、無数の「複製」をばら撒くことが可能になったということ。インターネットの時代は、「複製技術」の時代なのだ。
しかし、紙の本が、なかなかすたれないののは、なぜだろう? 多分、それは、まだ紙の本が「知識」の象徴としての「オーラ」を帯びているからだと思う。
今では(これからもますます)、たいていの有用な情報は、ネットと時間があれば、ほぼ、無料で手に入る。
検索できる情報は膨大だから、検索でのページ・ランクのアルゴリズムや、コンテンツの編集やキュレーションが大事だというのは、その通りだと思う。
個人としては、多くのノイズの中から必要なものを見つけ出すスキルは大事だし、制度としての教育の必要性も、こうしたコンテキストで整理できるのかもしれない。
情報を得るために、本を買うことはあるだろう。いいことだ。でも、本を買うことと、知識を得ることとは、別のことだ。
すこし、意地悪なまとめ。
知識を得たいと多くの人は思っている。今の時代、ネット上にいろいろオルタナティブがあるのに、本が売れるということは、買われた本が、実際には、あまり読まれていないからじゃないのかな。

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