モノと名前(2)


ここでは、「もの」と「名前」の関係を考えてみようと思う。

最初に起きたことは、「もの」に「名前」をつけることである(図1)。



そして、その「名前」は、ある「もの」を指し示す(図2)。




誰かが名前をつけた。ただ、このことは我々の「コトバ」についての意識からは、抜け落ちていても構わない。

なぜなら、我々にとって「もの」の世界は、「すでに名前を持つ「もの」」の世界として現れるように見える。「名付け」とそれと相補的な「参照」関係の二つのペアは、個人的な経験に時間的には先行したものとして、かつ、個人的な経験とは独立な多数の個人が共有するものとして現れる時に、初めて「コトバ」として機能するからである。「コトバ」は、まずは、歴史的・集団的に形成された所与として、我々に与えられ、そうしたものとして集団的に継承される。

我々を取り巻く「もの」の世界が、同じ構造を持つなら、また、我々人間の言語能力が同じ構造を持つなら、同じことが、様々の歴史的な集団の上で独立に起きる。「ことば」の世界は、現実には、日本語、英語、フランス語、 .... といった「様々なことば」の世界に分裂している。







ただ、重要なことは、言語は異なっていても、「名付け」「参照」といった関係は、共通である。日本語の「鳥」も英語の「bird」もフランス語の「oiseaux」も、具体的で実在的な同一の「トリ」を指し示す 



この図は、「もの」としての「トリ」は言語によって異なる「名前」を持つことを示すと同時に、言語の違いを超えて、「もの」としての「トリ」の同一性を示しているとも解釈できる。

stat rosa pristina nomine, nomina nuda tenemus.

最初の「薔薇」は、一つの名前によって生まれる。そして、我々は、複数のはだかの名前だけを保持している

今度は、「ことばの世界」と「ものの世界」の天地を逆にしてみよう。面白いことが起きる。





図5は、具体的・個別的の「もの」と「名前」との関係を表している。「ものの世界」には、多数の「トリ」の個体が存在する。我々は、それに日本語なら「鳥」という名前をつける。ここでも、多数の個体を貫いて、「鳥」という「名付け」を可能にするのは、そこに「同一性」があるからだ。

ここまでの議論は、具体的な「もの」と「名前」についての、いわば素朴な対応理論である。素朴というのは、こうした対応関係が成り立たない「ことば」が存在するからである。

「ことば」は「もの」に付けられた名前だけではない。抽象的な概念(「自由」「平等」 「意味」...)や、「もの」ではない「出来事」(「第二次世界大戦」「爆発」...)も「名前」を持つ。具体的な心理的な状態(「悲しみ」「意図」...)も。これらを先の図にマッピングするのは、難しい。何よりも、我々を取り巻く「もの」の世界は、常に変化を続けている。そうした状態の変化を、こうした静的な対応関係で捉えることは難しいのだ。

(ただ、僕は「同一性」の把握に、今回見たような図式(数学的には、Fiberationだ)は有効だとも思っている。それについては、Martin-Löfの型の理論やVladimir VoevodskyのUnivalent Theoryを取り上げる時に、もう一度、触れてみたい。)





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