モノと名前(1)

ボルヘスの「動詞だけの言語」は、彼の創作だったのだが、僕らの言語は、もちろん、名詞だけでできているわけではない。ただ、コトバの意味を考え始めると、名詞の存在感がとても大きいことに気づく。コトバの意味を担っているのは、本当は「文」であって「語」ではないのだが。
ただ、個人の言語活動の最初の経験は、「モノ」に「名前」があることの発見から始まるようにも見える。僕の子供が最初に発したコトバは「ママァ」だったと思うし、ヘレンケラーの最初の「モノ・名前」体験は「water」だったと言われている。
(インターネットにはなんでもある。次のヘレンケラーとサリバンの動画は興味ふかい。https://goo.gl/0lvWmF 有名な「water」体験とは独立なのだろうが、彼女は、最初に、ボヂーランゲージで "come"と"go"の意思表示ができていたという。また、最初に発音したコトバは "it" だったという。動詞(命令形)と代名詞だ。これは意外と僕には面白かった。)
感覚と運動の能力を持っているすべての生き物は、生まれ落ちてすぐに「モノ」の世界に取り囲まれていることを「知る」。そしてそれに反応することが、彼らが生存する上で不可欠であることを、彼らは知っている。(もちろん、遺伝子的にコードされて、本能的に)
ただ、我々を取り囲む「モノ」を「名前」を持つものとして把握する生き物は、人間しかいない。確かに、犬やチンパンジーに、具体的なもののに名前をつけて、それを指示することはできるかもしれない。「ボールとってこい」「赤いボタン押して」等々。
でも、人間は、「すべてのモノが名前を持つこと」を、おそらくは本能的に知っているのだ。それは、犬やチンパンジーにはない能力だ。こうした能力があるからこそ、子供は、明示的に教えることをしなくても、爆発的にボキャブラリーを増やしていくことができる。
ヘレンケラーのwater体験が感動的なのは、「モノが名前を持つ」という世界の把握の仕方が、人間にとって、最も根源的な世界への関係の仕方であることを、改めて確認できるからだと思う。
次のポストで、もう少し詳しく、「モノが名前を持つ」ということを考えてみようと思う。
(2016/10/03)



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